残酷な現実ではあるけれど、学校であれ、家庭であれ、理想的とはいえない環境で生きのびるしかなかった子どもは、いびつな足場に合う独自の魂の形を作って成長し、その形に固まり、自分だけのバランスでかろうじて立っているような大人になるのではないかと思う。そうやって生き残り、大人になってから、「その足場、間違ってますよー」と誰かの手で正しいものに急に入れ替えられたりしたら、逆にバランスが取れなくなって倒れてしまうかもしれない。かつての先生によるあまりにまっすぐな糾弾の言葉から、そんな危うさをわたしは感じとった。

 では、いびつな足場に立って、自分なりの独自の魂のバランスで生きるかつての子どもを、誰が、どう救えるのだろうか。

 大人になり、自分もまた人の親となったノリコは、もしかつての子どもの誰かとまた会えたら、そのとき何ができるのか。

 作者がそのような難しいテーマの物語に託した思いの、大人としての確かさ、子どものころのままの軽やかさの両方が、物語の終わりに音楽のように豊かに流れ、胸を打つ。

 これはわたしだけかもしれないが、辻村さんの作品を読んでいるとき、ふと浮遊するような奇妙な感覚におちいることがある。

 本を読んでいる間に、知らず子どもに戻っていて、そこに、大人になったあの子が時を越えて助けにきてくれた、というような気持ちだ。なにしろ相手はもう大人だから、頼りになるし、子どもの心がよくわかる人だから、信頼して大丈夫。そういう不思議な安心感も辻村作品の魅力の一つではないか、と思っている。

 この感覚って、わたしだけのものじゃないんじゃないかな……?

 たとえばサイン会やイベントで辻村さんご本人とお会いした読者の方は、初めて会うのではなく〈再会〉しているような感慨を持つことがあるのではないだろうか。あのころのあの子と、どちらも大人になってから再び会えた、というような。そして作家のほうも、読者の方一人一人に同じ思いで応えているのではないか、という想像もする。そうすると、作家から読者の方への心の声が、どこからか聞こえてくるような気がしてくる……。

「生きててくれて、ありがとう」

 と。

 作家はみんな生身の人間で、だから、寿命がある。たとえばいまから百年後にはもう誰も存在していられないだろう。

 でも、作家は小説で、小説は残る。

 わたしの想像の中の作家・辻村深月は、百年後の世界でも、ライ麦畑のどこかにひとり静かに隠れている。どっからともなく現れて、崖の方に走っていく未来の子どもをさっとキャッチするためにだ。

2023.09.21(木)
文=桜庭一樹(作家)