でも……。普段から学び舎で暮らすミカは、〈問答〉のことを、(先生が言って、ほしいこと。ほめて、くれそうなこと)を当てて口にさせられるものだと思い、息苦しい無意味な時間のように感じている。先生たちは、子どもがもともと自分の中にある学びを引き出している、と自信を持って言うのだけれど……?

 わたしは読みながら、学び舎の大人が、子どもの存在自体を「美しい子だ」と寿(ことほ)いで感嘆する様子などに不穏な気配を感じた。大人の理想のための夢の像、ある種の“マジカル子ども”の役を生身の子どもにさせてしまっているのでは、と。とはいえ、彼らの語る理想が間違っているわけではない。だから、やっかいなのだ。それなら、間違いじゃなく、足りないものがあるんじゃないか? 足りないもの……それはなんだろう?

 両親と離れ、子どもと先生だけで生活するミカが繰り返す「迎えにきてほしい」「お母さんにさわりたい。一緒にいたい」「本当は、お母さんと一緒に暮らしたい」「どうして寂しいのか、会いたいのか、その気持ちがどこからくるのかは、わからない」という訴えを読んでいると、胸がとても苦しくなる。後にミライの学校に対し批判的な立場に転じたかつての先生は、「あの子たちは、かわいそうだけど、選べない」「子どもだけで育てることで自主性は身につくかもしれない。けれど、その分失われるものも確実にある」と当時の教育を否定する。一方、大人になったあのころの子どもの一人は、確かに寂しかったけど、「大人になった今も、あそこでの経験が私を支えていると感じることがたくさんあります。それに――楽しかった」と懐かしそうに語る。わたしたちの多くの記憶がそうであるように、彼らの過去も、良いことと悪いことの両方が切り離しようもなく捻(ねじ)れてくっつきあい、闇の向こうで不気味にうごめいている。

 わたしは、子どもには〈愛〉と〈平等〉の両方が必要だったのだな、と読後にしみじみ考えた。家庭などのプライベート空間には〈愛〉があり、学校などの学びの空間には〈平等〉がある、それが理想だといったら、理想を語りすぎだろうか? かつての先生は「利己的になってでも、その子のことだけを考える親の存在が、どんな子にも必要です」と分析するが、ミライの学校にはそういう大人はいない。子どもはただ苦しいほどに〈平等〉だった。しかもその〈平等〉は平時にしか存在してくれない。非常時になれば、大人は理想を捨てて保身に走り、怯(おび)える子どもの口をふさぐ、そんな環境だったのだ……。

2023.09.21(木)
文=桜庭一樹(作家)