春と売野が宿泊する千駄ケ谷のホテルと周囲の光景は、オリンピックが延期されて空虚な場所であることが、春にとってはめずらしい、女友達と過ごす貴重な時間をより印象的にしている。

 この小説が書かれた時にも、さらには単行本が刊行された二〇二一年の七月でさえ開会式の直前まで、「東京2020オリンピック」がほんとうに開かれるのか半信半疑だった人は多いのではないかと思う。文庫で読む今は、オリンピックがこの翌年に開催されたことを知っている。あの先の見えない日々の感覚を久々に思いだしたかもしれない。そこにもまた、時間を経て読むことで生じる「読み直し」がある。

 二〇二三年に読んだ私は、この小説はなにより子供の無力さを書いたものだったのだ、と強く思った。

 この原稿を書く直前に、私自身が子供のときの経験を書く機会があって、そうか、あれは無力だったから、無力であることを思い知らされたからあれほどつらかったのだと思い当たったことも大きい。

 子供のころの春の周りにいた大人たちは、あまりに幼稚で身勝手である。もしかしたら、この小説が始まる前の時期、十代のころに、周囲に気を遣い感情をあまり出さない春のことを、彼らよりもよほど大人だよ、などと軽々しくわかったようなことを言う人もいたかもと想像する(子供、特に少女を「精神的には大人」と都合のいいことを言う大人はよくいる)。

 断言したいのは、彼女はそのとき子供だったことだ。自分で生活することも、今日の夜にどこで誰といるかを選ぶこともできなかった。状況を理解して、ちゃんと助けてくれる人を探すこともできない、圧倒的に無力な子供だった。一人の子供を安心できる環境におくべき大人が、それをしなかった。その深い傷を、損なわれた心を、彼女自身が「読み直す」ことでようやく自分の生を生きていく小説なのだと思う。

 春の父とその妹は、「救われたい」と思ったから「神さま」を求めたのだろうか。「神さま」に従えば誰かを救えると思ったのだろうか。

2023.10.03(火)
文=柴崎 友香(作家)