その欠陥とは“犯人のアイデンティティの剝奪”だ。

 フーダニット、つまり、犯人の正体が主眼の謎になることが多い本格ミステリは、真相隠蔽のために犯人を無個性化せねばならず、この問題解決にはいくつか手段があるが、アガサ・クリスティは『ナイルに死す』で“事件以前”の群像劇に筆を割くことで、その構成員として犯人の個性を豊かに描いた。

 本書は、このクリスティ・メソッドの類例と言える。もちろん、犯人と〈盲剣さま〉は別人だが、しかし、無辜の人々を護りたい、その想いは共通で、つまり、ひとつの正義を複数人に共有させたことに本書の眼目はあるのではないだろうか。

 正体を隠蔽しつつ、犯人を登場させる方法のひとつに“変装”がある。

 代表的なのは〈少年探偵団〉の怪人二十面相だが、一部の島田作品にも“怪人”が登場する。『異邦の騎士』のドッペルゲンガー、『水晶のピラミッド』のアヌビス神、『アトポス』の吸血鬼、『涙流れるままに』の首なし男、『透明人間の納屋』の透明人間、「UFO大通り」の宇宙人、『ゴーグル男の怪』のゴーグル男など、これら島田作品の怪人には“唯一無二のある特徴”があるのだが、さきに別の論点に触れておきたい。

 それは、島田荘司の筆力についてだ。

 島田作品の小説としての面白さは、その圧倒的なストーリーテリングにある。

 あらゆる物語に共通する普遍的な駆動力。それは“欲求”だ。三大欲求とはつまるところ生存欲だが、形而上的欲求で最も強力なものはおそらく“執着”であるはずで、考えてみれば島田作品の登場人物はまず例外なく何かに強烈に執着していて、ゆえに喜怒哀楽が激しく、だから島田荘司の物語は猛烈にドライブするのである。

 この執着は実はミステリとしての要素にも大きく貢献していて、ときに荒唐無稽な島田作品の真相の説得力に有無を言わさぬ迫力があるのは、犯人の執着が、トリックや犯罪計画の瑕瑾(かきん)もろとも読者を呑みこんでしまうからだ。犯人の鬼気迫る執着の前にあっては、第三者視点の客観的整合性やトリックのコストパフォーマンスなど些事なのである。

2023.08.29(火)
文=山岸 塁(マジシャン)