「母」を使って主人公を誘惑するアオサギの正体

 前述した、アオサギの変化について思い出してみよう。アオサギは、イメージの世界に入り、眞人に仕留められ、うまく飛べなくなる。その魅力的な鳥の身体を失う。それはなぜか。アオサギが、眞人にとって、父だったからではないだろうか。

 アオサギはずっと眞人のことを誘惑する。お前は母が欲しいんだろう、と。失われた母を手に入れたくて仕方がないんだろう、お前は母をこの手で描き出したいんだろう。そう唱え続ける。

 だが眞人が実際にイメージの世界に――アニメーションの世界に入ってみると――そこに誘惑する父はいなかった。そこにいたのは、少女になった母と、いなくなった父だった。あんなにも魅力的な飛ぶ父の体躯は、もう、ない。自分が倒してしまったからだ。どこかコメディめいた、笑える存在になってしまった。

 そんな世界で、どうにか眞人は、母を探そうとする。そしてヒミという少女――実母の手を、取る。

 父の不在、母への思慕。その構造が『君たちはどう生きるか』を支えている。それは宮崎の想像力の源泉でもあった。喪われた母を求めて、この人は、ジブリ映画という巨大な想像力を作りあげてきたのか――その事実に私は打ちのめされる。

 

ラストシーンで主人公が見たものとは?

 宮崎にとってこの映画を作った意味はどこにあったのだろう? 単なるマザー・コンプレックスの告白に過ぎなかったのだろうか?

 違う。私は、この映画は、宮崎が「少年の物語」を真正面から描きたかったのだ、と思っている。宮崎アニメにおける『君たちはどう生きるか』の達成は、まさにここにある。

 インコが蔓延るイメージの世界を、最後に破壊できるのは自分しかいない、と宮崎はきっと分かっている。だからこそ自分自身の手で、母性に憧れる少年の物語を描き出したのだ。本作の終盤、ヒミは眞人にこう告げる。

「私、きみを産むんだよ! 楽しみじゃない?」

 そうヒロインに唱えさせることは、母性にすべてを託そうとする少年たちの、願望そのものである。

 宮崎駿はきっと地獄にアニメーションを持っていくのだろう。お母さんみたいなヒロインがいてほしい、という少年たちの願望をほかならぬ自分自身が叶えていたことを、彼は誰よりも知っている。

2023.08.15(火)
文=三宅香帆