宮崎駿はなぜ少女に空を飛ばせたのか?

 だとすれば『風立ちぬ』を観た私たちは、こう言えるだろう。彼が「空飛ぶ少女」をずっと描いてきたのは、「空を飛ぶ」アニメーションを、罪悪感なく描くためだったのではないか。(※2)

 ナウシカも、サンも、キキも、千尋も、宮崎の描く空飛ぶ少女は、平和を守る。みんなの期待を背負って、戦争に加担せず、空を飛ぶ。宮崎は自分の「空を飛びたい」願望を、罪悪感なく――つまり戦争に繋がる手段ではなく――叶えるために、「少女に」空を飛ばせ続けていたのだ。それは彼が少年の姿でついぞ描くことのできなかった夢だった。

 しかし宮崎はいつしか「空飛ぶ少女」を描かなくなる。特徴的なのは『ハウルの動く城』だろう。呪いによって90歳の老女になったソフィーは、ハウルの手を取ることで、空を歩く。物語の最後に至るまで、ソフィーは銀髪になったままで、そんなソフィーにハウルは恋をする。それはまさに宮崎が「空飛ぶ少女」の身体を手放した瞬間ではなかっただろうか。

『ハウル』で少女の物語は終わり、少年が描かれはじめる

 彼の生み出す少女の物語は、『ハウルの動く城』で「老い」というものを描くことによって、ひとつの終わりを見せていた。少女は老いるし、永遠の少女ではいられない。

 では少年はどうだろうか? 『崖の上のポニョ』でまだ年端もいかない少年とポニョの恋を描いたのは、むしろもう一度宮崎が少年の身体を取り戻すために必要な過程だったのではないだろうか。『未来少年コナン』で、少年が縦横無尽に走り回っていた頃の身体感覚を取り戻すための。

 だとすれば、『ハウルの動く城』で空飛ぶ少女の老いを受け止めた後、宮崎は『崖の上のポニョ』『風立ちぬ』で少年そして青年の物語を描くことを選択していた。それは、空に魅せられた彼自身の物語を描くために。

 こうして『風立ちぬ』で、自身の血塗られた夢を打ち明けた宮崎は、今作『君たちはどう生きるか』に取り掛かる。

2023.08.15(火)
文=三宅香帆