その結果、最終的に五作も書き継ぐことになり、作者としてもいささか苦笑を禁じえない、うれしはずかしの誤算を経験した次第だった。
人気が出てくると、書き手自身が主人公にだんだん感情移入して、筆が甘くなることが多い。主人公の内面描写を、徹底的に排除したのはそれを避けるため、といってもよい。同時に、禿鷹と競り合う副主人公のやくざの幹部水間、あるいは禿鷹と親密になるクラブのママ、といった脇役の禿鷹に対する観察や心情を、より綿密に書き込まなければならなかった。言い換えれば、これは主人公を除く登場人物の多視点による、三人称小説ということになる。読者は、その複数の観察者の目を通して、禿鷹に対する感情を共有するわけだ。少なくとも、作者はそういう効果をねらって書いた、と考えてもらっていい。
この書き方は、ダシール・ハメットの『マルタの鷹』と『ガラスの鍵』に用いられた、主人公を含む登場人物のすべてについて内面描写、心理描写をしないという、きわめてストイックなスタイルから、思いついたものだ。つまり、禿鷹の登場する場面には、かならず報告者として他の登場人物がいる、というかたちになる。禿鷹一人だけ、という場面は基本的にないはずで、もしあったとすれば読者の多くは、違和感を覚えるだろう。こうした小説作法上の工夫は、作家ならばだれでも考えているわけで、ことごとしく書くまでもなかろう。
本来、作者としての立場からすれば、シリーズものを緊張感をもって書けるのは、おおむね三作程度まで、と思っている。むろん、プロならばキャリアと技術で、もっと長く続けることは可能だし、それは多くの作家も同じだろう。
ただ、主人公に対する愛着が深まりすぎないうちに、シリーズを終えるのも一つの考え方だ、という気もする。シリーズが何年も続くうちに、世の中がどんどん変わっていくのに、主人公やレギュラーの脇役がほとんど年をとらない、という設定にも無理が出てこよう。わたしの場合、百舌シリーズでは第三作、禿鷹シリーズでは第四作で、主人公が死んでいる。それによってシリーズに、決着をつけるつもりだった。
2023.06.02(金)