料理は、茶道、華道と並んで必須の花嫁修業でした。こうして国を挙げての栄養改善運動は功を奏して、1977年にバランスのとれた日本型食生活が完成したと喜ぶのですがそれも束の間、それまでになかった生活習慣病、メタボや、アレルギーなどの病因ができ、多くの人が健康に不安を感じるようになるのです。

 

食事を「食べごと」と読む

 食事を辞書でひくと、「生命を維持するために毎日習慣的に飯などを食べること、またそのたべもの」とあります。食事とは、料理して食べることですから、こればかりは、辞書が間違っていると私は思います。

 食事を「食べごと」と読めば、食事に関わるすべてのこと、買い物、料理すること、食べること、洗い物、片付け、掃除、全てが食事であるとも言えるのです。これの繰り返しが暮らしです。

 辞書にある食事に「料理する」が書かれていないのは、なぜかを考えると、男社会は女性の仕事を無視しているためです。家の仕事は価値のないものと考えているからです。

 それは意図したものでなく、編纂した男性が無意識のうちにしたことだと思います。「人間は何を食べてきたか」という本を、何人もの哲学者や歴史学者が書いています。NHKの番組にも同じタイトルのアーカイブがあります。人間は何を食べてきたのかという問いは、グローバル化や、食材を奪い合う戦争という男の権力争いの歴史です。しかし、「人間が、どんな思いで料理をしてきたか」を書いた学術書はありません。そんな家族を思う女性の思いなんて考えたこともないのです。

 それはなにも日本だけの問題ではなくて、西洋ではギリシャ時代から、料理は召使いや奴隷がするものとしていたようです。戦争から戻った強い男は料理などしない、凱旋する空腹の彼らを料理が迎えたのです。狩猟民族である西洋では、獲物を殺して、家に持ち帰り、肉を分け与えることで家族は料理して暮らしを守っていたのです。

 一方、採取、漁労、農耕ができた東アジアの孤島では村の年寄りと女性だけで子を育て、男がいなくとも生活できたところに、西洋とは違う男女の関係があるように思います。

2023.04.12(水)
文=土井善晴