現代では、料理以外のことは、ほとんど全てを何かの装置や機械に置き換えてしまったように思います。何かに託すことで、それを利用する私たちの身体能力(知力)はずいぶん弱まりましたが、機器を利用することで、素早く移動し、洗濯も、床掃除も機械に任せ、考えることさえコンピューターが行うという夢のような進化を遂げたのです。そう思うと、人間が人間になってから、いまだに続けている行為は料理だけです。人間は今も料理する動物です。
この一点を観ても、料理は人間にとって大事な意味があると思います。『人間の条件』を書いた女性哲学者ハンナ・アーレントは、人間の条件の大前提として「地球」と「労働」を挙げています。地球とは私たちのかけがえのない住処であり、労働とは、お金に換えることができない人間の活動です。人間は、地球と労働から逃れられないというのです。お金さえあればなんでも手に入る現代でも、(ステータスによらず)料理はとっても厄介な問題としてあるのです。今、私たちの和食文化と地球は危機に直面しています。
料理するひと、食べるひと
近代の私たちの生活は「仕事」と「暮らし」が分離しました。それまで家業(農業など)と言われたように暮らしと仕事は繋がり、重なっていたのです。家の中で親と子供、年寄りがそれぞれの役割をもって仕事を手伝い、協力しあって生活し、一つの家族をつくっていました。
商業が盛んになって、会社勤めが増えてくると、外の仕事は男、家の仕事は女として、家の仕事の一切を女性が担うようになったのが専業主婦の時代。「料理するひと」と「食べるひと」をはっきり区別するようになったのが、男子厨房に入らずの時代です。料理は女性にとって家事の中心、一大事の仕事でした。
敗戦後の復興を経て、日本国民の栄養改善運動熱が高まり、油を使う料理や肉食が一般化されます(フライパン運動)。栄養指導のもと、西洋料理のような主菜を中心にした献立を、和食の一汁三菜に当てはめると、一般家庭に広まります。そもそも和食には、メインディッシュという概念はなかったのですが、メインディッシュが生まれて献立を立てる順序が変わります。晩ご飯のおかずに「魚か肉かどちらがいい」という家庭料理のお決まりのやりとりが始まったのです。和食に、牛や豚の肉料理はなかったので、中華料理や西洋料理に頼って、大いに日本の家庭料理に取り入れられるようになりました。NHKが開局し、「きょうの料理」(1957年〜)の放送を通じて専業主婦を後押しもしました。日本人は世界中の料理を家で料理して食べていますが、日本人の雑食性の起源はここにあります。
2023.04.12(水)
文=土井善晴