加藤さんは「降圧剤を飲みなさい」と何度も諭してくださったのですが、チヒロを産む前後に、降圧剤を飲んで血圧が劇的に下がった時に「薬って怖い」と感じた私は、加藤さんの親切な言葉に従いませんでした。

 私は子どもの頃から病弱で、小児結核を発症して幼稚園にもほとんど通えませんでした。幸い、人にはほとんど感染しない「塗抹陰性」でしたが、その頃から、どうせ死ぬんだしと思って、自分の人生を大切にしてこなかった。花火のようにパッと光って消えるのが人生だろうと思っていたのです。その気持ちは、自分の子どもが生まれてからも変わりませんでした。

 まもなく私は、大学病院に通うのを止めてしまいました。

 目の焦点は相変わらず合わず、すべてがダブって見えていました。物が二重に見えると情報も2倍になるので、本当に疲れます。特に商店街の看板は最悪で、文字がそこら中に溢れ出しているような気がして気が狂いそうになりました。バスに乗る時は、足元の段差がよく見えないので足で探ります。眼帯をつけると、情報量が減って少し楽になるので、左右を入れ替えながらずっとつけていました。

夫が帰ってくるまでの2週間

 旦那がアメリカに行っている2週間近く、朝は眼帯をつけた私が5歳のチヒロをバスで保育園まで連れて行き、帰りは小学5年生のコウスケが学校とは反対方向にある保育園までわざわざ妹を迎えに行ってくれました。子どもたちもさぞかし大変だったと思います。

 コウスケは小さな頃から、一日中走り回っているような元気でのびのびと遊ぶ子でした。1年生の音楽の時間には突然手を挙げて「『すずめがサンバ』を歌います!」と机の上で歌いながら踊って大評判。友達が自分のお母さんに「清水くんがおもしろかったんだよ!」と興奮してしゃべったことで、私の知るところになります。保護者面談の際には担任の先生から「あのリズム感はただものではありません!」と言われ、授業参観では、親が見ている前で、隣の席の子とおしゃべり、後ろの子とおしゃべり、最後は居眠りする始末。

2023.03.13(月)
文=清水ちなみ