時間を見つけるとすぐに東京を離れていた
――長年、音楽の勉強をされた蓄積が活きたのではないでしょうか。
引き出しは多く持っていたと思います。クラシックだけではなく、親に反対されても、ロックからジャズから好きでたくさん聴いていたので、そういうものが自分の中に詰まっていたかもしれないですね。
――その後、少年隊の「What’s your name?」(作詞)、「まいったネ 今夜」(作詞作曲)など、ジャニーズ事務所との仕事が続きます。
ほとんどがジャニーズ出版との仕事でした。専属契約は結んでいなかったけれど、メリーさんの「他には書かないでね」の一言に、「はい!」って(笑)。
南野陽子さんにも書きましたし、シーナ&ロケッツの作詞をしたり、ジャニーズ以外の仕事も少しはしていました。けれど、私は付き合いが悪くて、時間を見つけるとすぐに東京を離れてしまっていたのです。今だから言えますが、売れているときはゴマをすって、売れなくなると「フン!」って手のひらを返して離れる芸能界の感じが苦手だったので……。
当時はダイビングに凝っていたので、印税が入ると南の島に潜りに行っていました。良かったのは、携帯もメールもなかったこと。だから、一度出かけてしまえば捕まりません。そうすると、ジャニーズ出版の人から「また宮下さんが捕まらない!」、「今度出かけるときは、どこに滞在していつ帰ってくるか、必ず教えてください!」って怒られていました(笑)。
――不躾な質問で恐縮ですが、20代という若さで印税が入ってきたとき、どのような感覚になりましたか?
そうですねぇ、あまり変わらなかったかもしれません。音楽に取り組める恵まれた環境で育ててもらい、一方で、時給500円のアルバイトで自活した経験もあるけれど、今も昔も、食べていける程度のお金があればよいかしら、と思っています。唯一良かったのは、印税で両親の家を建て直したことでしょうか。それまで「歌謡曲なんて」って言っていた母親が「歌謡曲も捨てたものじゃないわね」ぐらいには柔らかくなってくれました(笑)。
2022.10.16(日)
文=石津文子
撮影=深野未季