窪 そうですね、おっしゃる通り、「書いておくんだ」という気持ちですね。
最近、詩人の長田弘さんの詩の、「貝殻をひろうように、身をかがめて言葉をひろえ」という一節がすごく響いたんですよね。貝殻を拾うように、腰を低くして、視線も低くして、言葉を拾う。自分が小説を書くってこういうことだな、と思うところがありました。
――書かれるものはいつも、一発逆転のハッピーエンドみたいにはなりませんよね。その人が再生するまでというよりも、再生の可能性を示唆するところまでを書かれるという印象もあります。そこにはどういう思いがありますか。
窪 フィクションで一発大逆転する面白さはすごくあると思うし、私もそういう映画などは大好きですけれど、なんとなく自分が書く小説としてはリアリティがないと思いがちなんです。ちょっとした可能性を、ほのかな光を見せるぐらいで終わらせるという頃合いが好きなんでしょうね。「わあ、すごいハッピーエンドで面白い」というものもいつかは書きたいですけれど、今の気持ちとしては、ひそやかな希望をとどめて終わる、みたいな話が好きです。
「生きててくださればオッケーです」という子育て
――それと、窪さんの作品は人々の生きづらさを描きながらも、生を肯定的にとらえていると感じます。『ふがいない僕は空を見た』の「だから、生まれておいで」という言葉や、今回の「真夜中のアボカド」の、母親の娘に対する言葉などが心に残りましたが、他の作品からもなんというか、「生きていいんだよ」と伝わってくるものがあります。
窪 私は最初の子どもを生まれてすぐに亡くしているんですね。今いる息子を育てている間は、ずっと、「生きててくださればオッケーです」って思っていました。この子がどんなことをやろうと、何があろうと、生きていてくれればオッケーです、って。それを読者の人にも自然な形で伝えたい、という気持ちがあります。
すごくつらい状況でも、とりあえず1日生きてみて、って思うんです。死ぬことだけは避ける、という感じで1日1日を生きていくと、もしかしたら辛いことをしのげるかもしれない。たとえば、ちょっとした息抜きに本を読んで、明日続きを読もう、と少しずつ日を刻んでいったら、それが1年になっているかもしれない。
2022.08.07(日)
文=瀧井朝世