「自分には代表作がない」という言葉の真意

 そして、9月23日に公開される『総理の夫』では、また180度異なる役柄に挑戦。心優しい性格の鳥類学者に扮しており、第一声から『哀愁しんでれら』『ヒノマルソウル~舞台裏の英雄たち~』とは全く別人にしか見えない演技を披露。人付き合いがやや苦手で引っ込み思案なキャラクター像を完璧に作り上げている。妻(中谷美紀)が内閣総理大臣になったことで生活が一変し、振り回されていくも妻への愛情は全く変わらず、懸命に支えようとする姿が感動的だ。

 ただここも、観る側が素直に感情移入できるのは「田中圭」という存在に対してイメージが固定化していないからであり、その要因は田中自身が意図的に「イメージを付けない」ように立ち振る舞ってきたからといえる。

 出演作が立て続いたとしても、他の作品の印象を引きずらず、全力で役に奉仕する。そうすることで「役者がこういう役を演じている」というニュアンスを薄めているのだ。田中自身、過去のインタビュー等で「代表作がない」ことを重視していると語っており、役者が前に出すぎない「作品を立てる」意識が感じられる。

 同時に、作品を立てるということは己の見え方を意識しすぎないということでもある。自意識先行の役者であれば、汚れ役は避けて通るのが定石。そのため、「カッコいい」「美しい」イメージはキープできても、演じられる役の幅は制限されてしまう。ただ、田中においてはカッコ悪い役でも、倫理観が外れた非道徳的なキャラクターでも、激しいラブシーンがあってもなんら枷(かせ)にならない。こうした懐の深さは、「人には何かしら欠点があるもの」という彼の持論にもつながっている。

 直近の作品のみならず、これまでにも『図書館戦争』や『びったれ!!!』『スマホを落としただけなのに』『美人が婚活してみたら』等々、ジャンルを横断した様々な作品で属性も性格も全く異なる人物を立体化してきた田中圭。ひょっとしたら、彼の目には「ただ、その“人”を演じる」というシンプルな、それでいて核心を突いた真理だけが映っているのかもしれない。

2021.06.20(日)
文=SYO