剣心と巴のラブシーンは、僕にしては珍しく“形”にこだわりました
――(笑)。『影裏』などもそうですが、大友監督は友情や愛情、絆を清廉なものだけではなく、ある種の「執着」としても描いている気がしています。そのため、「情念」のような生々しさが生まれてくる。そして、生身の“人”としてキャラクターが立ち上がってきます。
個人的に、漫画ってすごく羨ましいなと感じているのは、絵のタッチ、それ自体で「情念」や「執着」を薄めることができるんですよ。劇画だったらまた別かもしれませんが、絵のムードによってさじ加減を調整できますよね。
『るろうに剣心』は和月先生の美しい絵によって広く届くつくりになっていますが、作品を形作っていく本質的なテーマは「人斬りが贖罪をどう体現していくか」。
文学的にも非常に深く、人間の業(ごう)にも関わってくる内容ですよね。だからこそ、連載当時には「少年ジャンプで連載していいのか」という議論もあったと聞いています。
そうした作品を実写映画化し、シリーズを重ねていくなかで最後に『The Beginning』が来て、やっぱり業や情念、執着といった人間の本質的な部分を見て見ぬふりはできないぞ、とは改めて思いました。
とはいえ、想いが強いからこそ努めてニュートラルに撮ろうとはしましたね。内面的な感情の流れは、佐藤健も有村架純も優れた“器”だから、やっていくうちに自然と感情が生まれてくるし、魂を入れてくれる。
そのため俳優たちに“意味”を押し付けることはせず、ただ今回は僕にしては珍しく、幾つかのシーンではかなり“形”にはこだわりました。特に、剣心と巴のラブシーンですね。
――解釈ではなく、見え方の演出ということですね。具体的には、どういった演出を施されたのでしょう。
ふたりがふっと寄り添ってなだれ込むまでの動きは、アクションと一緒で形を決めないと結構難しいんですよ。
奥にいる巴が、右手を伸ばして剣心の左頬の傷に触る、そこに剣心が手を重ねて……といった一つひとつの動きを、細かく詰めていきました。
情念そのものを深掘りするというよりも、そうした動きやシルエット、巴だったら剣心の傷への触れ方などによって、漂わせることを意識しましたね。
――剣心と巴だと、目線の交わし方も素晴らしかったです。言葉にせずとも、感情がしっかりと伝わってくる。
好きな相手に「好き」と言えてしまったら、もう描くことってないんですよ(笑)。好きな人に想いを伝えられないからどう伝えていくかを考えるし、逡巡もする。
これは芝居だけの話ではなくて、僕も日常で人になかなか本音は話せないし、自分が抱えている本当の気持ちをきちんと言葉にして、嘘偽りなく伝えられるかといったら、そうではない。
そうした中で、自分の気持ちを伝えるためにどうするかといったら、やっぱり相手の目を見るわけです。
恋愛感情って、実は見つめ合っているうちに自然と生まれてくるものじゃないかと僕は思うんです。
普通はじっと見つめ合っていたら照れくさくてそらしてしまうけど、眼差しをじっと交感していれば、自然と「好き」という気持ちや愛が生まれちゃったりするかもしれない。
けれど、日常でそこまでの機会はなかなかない。だから人は、恋に恋したり愛に憧れたりするんでしょうね。
ただ、剣心と巴はそうではない。恋や愛を意識しないで生きてきたふたりであり、人を愛することすらも、何かのご縁で決まっていく時代だった。
巴と清里(窪田正孝)は幼なじみではあったけれど、御家人という立場で、結婚も家と家の関係性から発生するものと考えると、結婚生活が始まって一緒に生活して、初めて夫婦としての愛が生まれていくはずだったんですよね。
ただ、清里の死によってその道を絶たれてしまった。剣心も愛を知らずに育った人物ですし、そんなふたりが出会い、孤独を埋め合おうと寄り添っているうちに、“何か”が芽生えてくる。
僕がドラマを撮るときに一番こだわりたいことって、そういったものなんです。
それは恋愛に限らず、『るろうに剣心 伝説の最期編』の一騎打ちシーンで、剣心と志々雄(藤原竜也)がお互いに会話をするところでも同じです。
人斬りの先輩と後輩とはいえ、お互いに顔も知らなかったふたりが、敵味方として向かい合って剣を交わした挙句、「さらばだ、志々雄真実」「地獄で会おうぜ、抜刀斎」とお互いの名前を呼び合う。
目の前の人を少しでも救いたいと思う剣心と、新しい時代を滅ぼしたい志々雄は全く別の志を持っていますが、刀を合わせて戦うことでお互いを知っていった結果、そのやり取りにつながるわけです。
そうした部分が、人と人のドラマを描くうえで一番面白いところだと思います。
2021.06.13(日)
文=SYO
撮影=平松市聖