そのとき表現したいことはその都度携わっている作品に自然と反映されていく
――お話を伺っていると、大友監督のオリジナル作品も観たくなってきます。
そこに関しては、実はこだわっていないんですよ。もちろんオリジナルを作りたいという思いはあって、たとえばいまだったら映画館の休業要請に伴うものです。
僕自身も都の窓口や文化振興に問い合わせたり色々と自分で動きましたが、散々たらい回しにされて、黒澤明監督の『生きる』から全く変わっていないなと。
69年前の映画なのにですよ。『生きる』をいまの時代に翻案した映画は、今すぐにでも作りたい。
一人の人間が自分の大切なものを世に出そうとしたときに立ちふさがるものはいっぱいあって、そうした状況を諦めず、どういう風に突破していくか。
そういった構造をドラマに落とし込んで作りたいという思いはあるけれど、映画って実現するまでに時間がかかるメディアだから、タイムラグを考えないといけない。
10年かけた『るろうに剣心』が終わり、もう次の映画の企画は動いていますが、来年撮る作品も3年前から準備しているものですしね。
自分の根本はドキュメンタリーでありジャーナリズムだから、いま起こっていることについて反射して「作りたい」となるのですが、それを映画というフォーマットに落とし込んだ際、脚本を作って準備していざ撮るぞとなったときにはもう飽きてしまっている可能性もあるんです。
だからこそ色々なネタは常に仕込んでいて、自分の中で「いま、感じている想い」を熟成させて、隙あらば他の素材の中にも忍び込ませているつもりです。
自分のプライドというと大げさですが、どんな素材が来ても、それが他人から与えられたものであったとしても、自分が考えていることや思っていることをちゃんと作品に反映させていく。
僕は、そうした“魂”を作品に込められるかどうかが、監督の“技術や力量”だと思っています。
――なるほど、冒頭の「大作で“情念”を描く」話にもつながってきますね。大友監督の作家性にブレがないから、オリジナルかどうかは必須ではなくなってくる。
こだわっているくせに、「こだわらないこと」をポリシーにしているんです(笑)。ただ、そうはいってもやっぱり、そのとき表現したいことはその都度携わっている作品に自然と反映されていくんでしょうね。
「情念」然り、出来上がった後で「(自分は)こういうことを考えていたんだ」と気づかされることが少なくないです。
実はいま来ている企画ややりたい企画を整理したら、87歳までかかることがわかって。「思った以上に時間がないな」と感じていますね。となると、オリジナルか原作ものかというのは、僕にとって大事ではない。
いまの自分にフィットしたり、ちゃんとアウトプットできる企画かどうかが、大切になってきます。
連続ドラマだったら、自分がショーランナー的な立ち位置で最初の数話だけ撮ってあとは他の演出者に託したり、或いはプロデュースに回ったり、もしかしたらそうした手数を増やしていかなければならないのかなとも考えるんですが、やっぱり監督1本でやっていきたいなという思いも強くありますね。
あとは、「人からどういったものを期待されているか」を最近はよく考えます。例えば先日Facebookでなんとなく企画を募ってみたら、「この原作を映画化してほしい」と事務所に本を送ってくれたり、「こうした映画が観たい」だったり、企画が15本くらい一気に来たんです。
それらを観ると、自分が世の中に何を期待されているのかがちょっとわかってくるんですよね。
社会問題を突いたもの、『ハゲタカ』みたいなビジネスもの、『影裏』のように小規模の文学もの、外国からは『るろうに剣心』のようなものをやってくださいとも言われていて、それぞれの「大友啓史に何を期待するか」が見えてくる。
もちろん映画は自分の意志だけでは決まっていかない部分もあるから、ボタンが良いタイミングでハマるかどうかなんでしょうね。
そんななかで、「これだけは“人生の1本”として、他の企画を放り出してもゴリ押ししてでもやりたい」という企画が最後に1本見つかればいいなと思っています。
2021.06.13(日)
文=SYO
撮影=平松市聖