明日を生きるための運動

 ボクシングジムを退会してからは、再び運動無風の時代がやってきた。体の線がどんどんだらしなくなっていく。鏡に全身を映すことは苦痛以外のなにものでもなかったけれど、もうそういう年なのだろうとなにもせずに匙を投げた。

 42歳くらいからだろうか、今度は体力がガクンと落ちた。無理が利くのが売りだったのに、いつまで経っても疲れが抜けない。見た目の変化に悩んでいたのなんて、浅瀬でパチャパチャやっている程度の悩みだった。思うように体が動かないことのほうが、ずっと深刻だもの。

 これが老化か、と伏し目がちに生きていたら、ダンサーだった女友達が知らないうちにパーソナルトレーナーになっていた。そして、思い通りにならない体を持て余す私にド正論を吐いた。「ムキムキになるためじゃないよ。スタイルをよくするためでもない。これからの私たちには、明日を生きるための筋肉が必要なんだよ。もっと切実な話なの」。

 生きるための筋肉。たしかに、当時の私にはそれすらなかった。しゃがんだ姿勢から立ち上がろうとすれば、なにかにつかまってドッコイショとなるし、ちょっと歩けば腰が痛くなる。入念な部屋の片づけで筋肉痛になったこともあった。明らかに、毎日をつつがなく過ごしていくための筋肉がない。

 困ったぞとフリーズした私に、女友達はかまわず続けた。「50代の女性で、正座ができない人がけっこういるんだよ。柔軟性がなくなって、太ももの前側が伸びないの。ようやく座れてもあちこちが痛くて、今度は立ち上がれない」。

 なんてこった! 40代半ば目前の私にとって、50歳なんて「もういくつ寝ると」の距離にある年齢。見て見ぬふりは、もうできない。私は彼女のジムで、コアマッスルをメインに鍛える自重トレーニングを始めることにした。44歳の誕生日前夜に、最初の予約を入れた。

 それから約4年経ったいま、私は器具を使うトレーニングにも手を出し、レッグプレスで59キロの重りを12回×4セット挙げる。しゃがんだ姿勢から立ち上がるとき、周囲のものにつかまる必要はなくなった。

 子どものころから一度もできなかった腹筋は、やり方を変えたらできるようになった。太ももは太いが、パンと張っている。ピーマンのように垂れていた尻はずいぶんと丸みを帯びたし、ふくらはぎのむくみも減った。相変わらず体重は重いが、それがどうしたという気持ちになれた。

 これでも最初は散々だったのだ。動的ストレッチと呼ばれる、動きながら体を伸ばす動作だけで足が攣りそうになり、プランクは10秒ももたなかった。片足を前に出して踏み込むランジを1回やっただけで倒れそうになったこともあるし、足首とひざ下に太いゴムチューブを巻き、中腰でカニ歩きしただけで翌日ベッドから起き上がれなかった日もあった。あまりに不出来な自分が許せなくなり、しばらくトレーニングをお休みしたこともある。

 それでも完全には辞めなかったのは、体に微かな変化が起こり始めていたから。駅の階段が楽に上がれる、床に落ちたものを拾うのが億劫にならない、電車が急ブレーキを踏んでもよろけたりしない。あらやだ、「生きるための筋肉」ついてきたじゃん。

2021.05.06(木)
Text=Jane Su
Illustrations=Kaoru Konagai

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※この記事のデータは雑誌発売時のものであり、現在では異なる場合があります。

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