スケッチで形を掴み取り、その奥に潜む事物の本質に迫る
天明年間(1781-89) 一幅 大乗寺蔵
丹波の農家の次男に生まれた応挙は寺へ預けられたものの、絵ばかり描いていたため家へ戻されたという逸話が残る。次いで奉公に入った尾張屋は、ガラス製のレンズを通して、西洋渡りの遠近法を使った「浮き絵」を見る、「覗きからくり」と呼ばれた珍奇な玩具などを扱う高級玩具商であった。応挙は尾張屋の主人の伝手で狩野派の石田幽汀に入門、狩野派の筆法を学ぶとともに、浮き絵の制作を通して西洋絵画の技法も修得することになる。
さらに室町時代初期から宮廷の絵所を預かって、やまと絵を継承してきた土佐派、町衆に絶大な人気のあった琳派、最先端の中国風画法を実践していた南蘋派など、多彩な画派の技法を貪欲に学び、自らの画風をどこまでも広げていった(この総合的な様式がのちに、明治以降「日本画」と呼ばれるようになるジャンルの基礎となる)。
そして「写形純熟ののち、気韻生ず(形を完璧に写し取ることができれば、対象の本質は自ずから現れてくる)」という言葉のとおり、写生の重要さを自覚した応挙は、数多くのスケッチを描きながら、形を掴み取り、その奥に潜む事物の本質に迫ろうと努力を重ねていく。《波上白骨坐禅図》は、人体の構造を把握しようと努めていた応挙らしい突き詰め方が、どこかユーモラスにさえ感じられる作品だ。一方、水滴そのものを描くことなく、雨に打たれて濡れる竹、風にしなり、葉を乱してざわめく竹を表現した《雨竹風竹図屏風》の洗練ぶりには、「カッコいい!」と溜息を吐きたくなる。
その画業が進んだ先に、「リアルに描き込む」のではなく、「リアルに感じさせる」を優先した結果、明らかにデフォルメされてはいるものの、これぞ松、これぞ藤、と感じずにはいられない《雪松図屏風》や《藤花図屏風》が描かれていく。
2013.03.09(土)