天明6年(1786)頃 六曲一双 三井記念美術館蔵
※展示期間:3/1~3/24
相変わらず世はジャクチューとかショーハクがブームのようだが、声を大にして言いたい。そうはいっても「正統派」「王道」はすごいんだぞ、と。
江戸絵画におけるストライクど真ん中の王道が誰かと言ったら、それはもう18世紀京都画壇に君臨した円山応挙(1733~1795)に決まっている。伊藤若冲(1716~1800)と同時代を生き、狭い京都のご町内で暮らしていたことを思えば、すれ違うどころか顔を合わせる機会もあったかもしれない。
がしかし、京都に学問や芸術を学びに来る人のための入門案内書(人文ミシュランみたいなものか)として刊行されていた『平安人物志』という人物ランキング本で、画家部門の筆頭に名を挙げられたのは応挙であり(第2版と3版)、若冲は2位。没後も人気は衰えず、幕末に出された『書画価格録』によれば、市場価値がもっとも高かったのは、金10両で取引されていた応挙の作品で、2位の狩野探幽(金5両)を大きく引き離していたという。生きている間も、亡くなってからも、値の下がらない超優良銘柄。それが応挙だった。では応挙の絵のいったいどこが、それほど評価されていたのだろう。
キーワードのひとつは「写生」。そのものを正確に写し取った絵は、中国の伝説をモチーフにしているとか、禅の深い思想が背後に隠されている、などという絵と違い、特別な教養がなくても素直に味わうことができる。ただし応挙の絵は単純な「それっぽい絵」ではない。人間の視覚にいかにも「見たまま」だと感じさせてしまうような、ある種のトリックアート的な手法も含め、さまざまな工夫が凝らされていたのだ。
18世紀はヨーロッパでも自然の観察や写生への関心が高まり、世界各地から珍しい動植物を集めて分類・整理する博物学が興隆。自然の造形を精緻に写し取った博物画が人気を集めていたが、遠く離れた日本でも同じ気運が盛り上がっていた。実学に熱心であった徳川吉宗の殖産興業政策の下、諸藩に天産物(自然の産物)の調査が命じられ、全国の珍しい天産物を紹介する博覧会が江戸で開かれた。こうした流れの中で、人々の関心が博物学へと向かい、博物学好きの大名の間で、動物、植物、魚類などの精密な写生図をまとめた図譜制作も行われるようになっていった。そして応挙が生まれる2年前の1731年、徳川幕府が清から招いた宮廷画家、沈南蘋の写実的な絵は、日本の画家たちに巨大な影響を与える。そのような時代に、満を持して登場したのが応挙だったのだ。
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2013.03.09(土)