ともに是枝裕和氏に才能を見出され、映画監督の道を志したふたり。『ゆれる』『夢売るふたり』などで、国際的にも注目を集める西川美和。ドキュメンタリー映画『エンディングノート』で鮮烈なデビューを飾った砂田麻美。一方で、共に小説家としても、その才能を高く評価されている。共通点が多くありながら、その実対照的ともいえる道を歩むふたりの女性クリエイターが、映画監督として、小説家としての思い、そしてお互いへの思いについて、さまざまな角度から語り尽くす。西川美和の最新作『永い言い訳』公開記念のスペシャル対談、最終回の第3回!
不思議なシンクロニシティが……
砂田麻美さん(左):ドキュメンタリー映画『エンディングノート』(2011)で監督デビュー。2016年1月に上梓した小説『一瞬の雲の切れ間に』が各紙誌で好評を博す。
――映画『永い言い訳』は何で撮っていたんでしょう? フィルムですか?
西川 そうです。スーパー16ミリです。
――映像がデジタルではない美しさというか、フィルムならではの粒子が見えるのがすごく心地よくて。鮮明になり過ぎないのが、とても今回はあっていると感じました。
西川 今は劇場ではデジタル上映ですから、同じフィルムでも35ミリフィルムは粒子が細かいので、あれほどまでざらっとした感じはないですよね。一般のお客さんにとってはスーパー16ミリのほうがフィルムの質感が明確に感じられやすいのかもしれません。逆に世界的な潮流としていうと、またフィルムの人気が盛り返していて、世界中でもスーパー16ミリのフィルムを使っている作品も増えてきているそうです。『ゆれる』と『ディア・ドクター』は35ミリフィルムで、『夢売るふたり』ではデジタルを使いましたが、どっちもあっていいと思うので、作品によると思いますね。
――『永い言い訳』の主人公、作家の津村こと衣笠幸夫は編集者と不倫をしていて、妻が大変な事故の被害者になる。一方、砂田さんの小説『一瞬の雲の切れ間に』でも不倫をしている編集者カップルがいて、男の妻が事故の加害者になってしまう。前回の対談では小説の章ごとに視点が変わる構成が似ているという話になりましたが、題材も似た部分がありますね。
西川 そういうのって、すごく不思議ですよね。是枝さんの映画(『海よりもまだ深く』)とも、団地が被ったり、主人公がダメな小説家っていうのが被ったり。
砂田 あー!
西川 何の示し合わせもしていないんですよ。しかも、私がこの小説を書いていた頃は、是枝さんは『そして父になる』を撮っていたんですよ。血のつながらない子供とどう関わっていくかっていう話で、シナリオを読んでいるうちにゾッとしましたよ。これじゃ後発の私は、パクったみたいに言われるぞ、と。
砂田 『永い言い訳』は映画を先に観たかったんです。だから、ずっと小説を読むのを我慢していたんですよ。事故で奥さんが亡くなった人の話だっていうのは知っていたけれど、映画を初めて観て不倫相手が出てきた時に、男がおんなじようで、マズい! って(笑)。
――そこで初めて知ったんですか?
砂田 そうなんです。事故と不倫。
西川 不思議なシンクロニシティですよね。普段そんなに会ってないし、内容の話もしないのに、なぜだかモチーフが、かすかに被っていたりする。不思議ですね、確かに。
――カンヌとか海外の映画祭に行くと、題材やテーマが被る作品が毎年、3、4本は必ずあるんですよね。不思議なことに。
砂田 風潮みたいなもの、ありますよね。
西川 同じ時代を生きているから、感じている価値観も世界に対しての違和感も、示し合わせなくても何か似てくるんじゃないですかね。それをパクリとか何とか言うのって、おかしいんですよ。そういうものなんですよね。
――どこに共振していくか、というものかもしれないですね。
西川 とはいえ、絶対に一本一本、人によって視点が違いますからね。テーマが近くてもね。
――西川さんが、奥さんを失う話というのを書こうと思ったきっかけは?
西川 奥さんというよりも、家族を失った人の話ですね。東日本大震災の年の暮れぐらい、『夢売るふたり』の仕上げの前後に、ふと思いついたんです。家族を失った人の報道が、飽和状態っていうぐらい作られて、たくさん目にする機会があったんです。みんな、亡くした人を愛していた。耐えられない、とおっしゃる方が画面に映し出されるけれども、一方で、絶対にこんなカメラの前に出てこられないような人たちも、いっぱいいるはずだって思ったんですね。その日の朝にケンカ別れをしてしまったとか、嫌な形で別れてしまった仲間とか、家族同士とか、きっと中にはいるはずなわけで。そういう人たちの、絶対に人には言って聞かせられない後悔のようなものもまた、ずっとその先も残っていく。結局、大きな崩壊はそれ自体がとてもドラマティックですけれど、それがあった後というのが恐ろしく永くて、恐ろしく退屈なわけですよね。
――永く、退屈な時間が続く。
西川 それをどうやって乗り越えるということではなくて、また違う別の歩き方を探していく、という話をやってみようかな、と。それがきっかけですね。大変悲惨な目に遭う主人公なので、清廉潔白な人間よりも、「こんな奴、地獄に落ちればいい」というような主人公の方が観ていて面白いだろうな、と。そう思って、主人公はこういうキャラクターになっていきました。
――ダメな、酷い奴ではあるけれど、映画を観ていて救われましたよね。幸夫があまり善良じゃなくてよかったな、と逆に救われる。不思議な心地よさがありました。
西川 そうなんですよ。善い人だと可哀想になっちゃうんです。「可哀想」と感じちゃうとそれ自体が感動的だと鑑賞者は勘違いをして、ある意味思考停止に陥るんですよ。でも三人称で書かれているときは幸夫は酷い男だなって思うけれど、やっぱり幸夫の一人称に入ると、こいつにはこいつの屈託みたいなものがあるんだな、と。それが小説の面白さだと思うんですよね。そういうことが描けるという。
――砂田さんの『一瞬の雲の切れ間に』の男も、なかなか酷い男です。
西川 砂田さんの小説を読んで思ったのが、キャラクターがかなり複雑。これを映画でやろうと思ったら、とても大変なのよね。映画ではキャラクターにわかりやすさが求められるというか、複雑な人格を描くのがとっても難しくて。だから「自意識が強くてナルシストの小説家」というように何ワードかでわかるようなキャラクターにしないと難しいんだよね。
砂田 それを西川さんに何カ月か前に言われたときに、すごくハッとしたんです。意外だった。映画の主人公はより複雑であれ、って言われると思っていたけれども、それが映画と小説との違いである、って言われて「ああ、そうなんだ」と思って。ある意味すごく驚いたし、ちょっと考え方が変わりましたね。自分も脚本を書いているから。
西川 そういう意味で、砂田さんの小説はとても面白いと思った。なんていうのかな、ひとりひとりが曖昧ですよね、非常に。思考や行動原理も含めて。そこの不可解さにちゃんと突っ込んでいくというのが、小説の可能性だから。そこが書けていてすごく面白いし、いいなと思いましたね。
――わかりやすさと言えば、小説の『永い言い訳』で、幸夫が「文壇のジョニー・デップ」って言われているというのが、ばかばかしくて最高と思っていたんです。映画では使われなかったですね。
西川 そこかあ(笑)。小説を書いているときは、本木さんは想定していなかったので。全然顔も浮かんでいなくて。
――文壇のディカプリオはいないけど、自分をジョニー・デップと思っている人はいそうな気がして(笑)。
砂田 最近お騒がせだし、ジョニー・デップ。
西川 いたら、出てきてくれないかな。
――衣笠選手とジョニー・デップというわかりやすいキーワードがありながら、わかりやすいところに落とさない。
西川 そこに落とし込まなくていいというのが、小説のすごくいいところですよ。商業映画はやっぱり行動の理由づけとか、10人中10人とはいわないまでも、8.5人まではちゃんとクリアに理解させよ、というのが、制作側の要望としてある。砂田さんの小説でも、たとえば、なんで男性の登場人物が大学時代の同級生に手をつかまれたい気持ちになったのか、とか言い出したらきりがない。でも、えも言われぬことっていうのが、小説には書けるんですよね。そこが豊かなんですよ。
砂田 そう。『永い言い訳』でも、不倫相手の彼女がどういうふうにあの瞬間を迎えていたかというのは、私は映画の後に小説を読んだので、種明かしではないんだけれども、扉がもう1枚開いた感じがすごくしましたよね。それは映画では描いていない部分だから。みんな衣笠幸夫に視点を持って観ていくのが大原則であって、彼以外の胸の内は、小説を読んで「ああ、なるほど」と。
2016.10.14(金)
文=石津文子
撮影=志水 隆