守るべき最後の砦を父が示してくれた
こうして2022年に誕生したのが〈こっちのけんと〉だった。8月に配信デビューとなる「Tiny」、12月に2曲目「死ぬな!」をリリースした。
“生きるか死ぬかで語る身体が
命辛々語りかけてくるから
考えなしじゃ
もったいないじゃん”
“『死ぬってなんだろ 楽になれそう?』
馬鹿を言うなよ!
現世(こっち)で遊ぼう”
(「死ぬな!」より。作詞・こっちのけんと、作曲・こっちのけんと、GRP)
クールなトラックにあわせて歌われる生々しい叫び。『死ぬな!』はMV再生回数1400万回を超えるヒットとなった。
「『死ぬな』というのは、実際に父から言われた言葉なんです。父はそれまで、まるでライフプランナーみたいに僕の受験、アルバイト、就職に関わる人だった。その父がこんなふうになった僕に言ってくれたのが『死ぬな』の一言。当時の僕はみんながくれる『元気になるのを待ってるね』のメッセージに『なんで待ってるだけ?』みたいな反発を覚えてしまう状態。そんななか、父がどうやって生きるかではなく、最後の最後、守るべき砦を示してくれた気がして、すごく楽になれた。この曲はドン引きされてもいいやくらいの気持ちで自分をさらけ出してみようと思って、ボロボロ泣きながら作ったんです」
いちばん辛かった時のことを思い出して泣いて、泣き止むまで歌詞を書いたら歌う。それを何度も繰り返しながら曲を作っていった。
「それまで、辛かった時のことは思い出さないようにしていたんです。でも避けても避けても逃げることはできない。たとえは悪いですけど、生ゴミをずっと処理しないまま置いてあるみたいな感じで、ずっとイヤな臭いを発していたんです。でも『死ぬな!』を作りながら自分と向き合ったことで、溜まっていた生ゴミを袋に詰めてゴミ置き場に持っていくことができた。しかもリリースしたら、うつや双極性障害で苦しんでいるたくさんの方々から共感の声をいただいて、こんな自分を理解して受け入れてくれる人がいるんだと思えた。音楽が自分にとって救いになるということをはっきりと認識したのは、この曲からでしたね」
音楽が彼の救いになっているのは、その創作スタイルによるところも大きいという。彼が音楽を作るのは深夜。たったひとりパソコンに向かって歌詞を書いたり、歌ったりしている。
「社会人になってから映画館とか飛行機が好きになったんです。周囲から遮断されている感覚があって、そこにいる時は連絡があっても返さなくていいじゃないですか。夜中にひとりでパソコンに向かっている時ってその感覚に近くて、すごく集中できる。この集中した状態になると、ストレスとか悩みごとが頭から消え去って、心地よくなれます。歌詞の断片みたいなものは、普段から思いついた時にスマホにメモしているんですが、それをまとめて1曲作るのに約3カ月かかります。その間に集中してパソコンに向かうのは3回から5回。夕飯を食べて、お風呂に入って、普段より早めの夜10時とか11時に寝て、夜中1時くらいに起きて、そこから作業します。同じ曲をずっと聴いていると何がいいのかわからなくなってくるので、1回寝たあとの新品の耳の状態がいいんです」
2025.06.21(土)
文=川上康介
写真=平松市聖
CREA 2025年夏号
※この記事のデータは雑誌発売時のものであり、現在では異なる場合があります。