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私、多分自我が漏れているんだと思います(笑)

――もともと俳優をやってみたい、という気持ちは持っていたのでしょうか。

 私は「将来、絶対にこうしよう」というのはあまり決めないんです。なので、やりたいという願望よりも、やってみたらどうなるんだろうっていう方が大きかったですね。表現の仕事として俳優という仕事は私の中で近いところにあったので、ずっと興味はありました。

 例えば、ケーキ屋さんに並べられているケーキを見ながら、おいしいのかな、私がやったらどんな味がするんだろう、気になるな……みたいな気持ちがある状況ですね。どうにか近づきたい、とは思っていました。

――ここ数年、主演作品がどんどん増えていらっしゃいますが、それぞれの物語で役どころはもちろん違いながらも、演じるキャラクターには不思議と重なる部分があるように感じます。猫を追っかけがちだし……。

 逃がすし(笑)。

――(笑)。不器用だけど、常に自分で道を選んでいこうと試みている役柄が多いなと思います。

 私自身、オーディションを受けることも、ものをつくることも、今後の行き先を決めることも、どれも無我夢中。いまのことしか考えていないし、計画通りじゃなくてもいい。完璧じゃないまま強くなりたいんです。

 だからこそ、私が脚本に書かれた言葉やストーリーを解釈して表現すると、不器用だけど前向きという部分が演じるキャラクターの中に見えてくるというのはあるのかもしれないですね。

 私、多分自我が漏れているんだと思います(笑)。オーディションのときやお芝居に向き合ってるときって集中しているから、あまりコントロールが効かなくなっちゃうんです。なので、そのときのエピソードをよくいじられたりもしますね(笑)。

――素の奈衣瑠さんが出ている感じなのでしょうか。

 自分の身体に詰まっている成分が自然と出ているだけというか。それをコントロールした方がおもしろいときもあるんだろうけど、コントロールしない自分を見てほしいし、そんな自分を相手がどう感じるかを見てみたいという気持ちでオーディションに行ってますね。

――出演が決まってから脚本が書かれる、当て書きの作品も多いそうですね。

 五十嵐耕平さんの『SUPER HAPPY FOREVER』は、監督に会ってから脚本が完成したのですが、読みながら「待って、絶対自分やん!」ってなりました(笑)。あとヘソ監督の『オン・ア・ボート』という短編では、えだまめさんという名前のちょっと不思議な人を演じたんですけど、それも監督は私のことを思って書いたと言ってくださいました。以前インタビューしていただいた蘇鈺淳監督の『走れない人の走り方』も、ほとんど当て書きだったそうです。当て書きの脚本と出会うことで、こういう一面もあるなって気づいたり、自分では見えていない自分が見つかったりするのはおもしろいなと思います。

――特別な経験ですよね。

 ただ、私は自我はめっちゃあるけど、芝居は上手ではないし、技術もないんです。現場にはどんな役柄でも演じられる上手くて技術のある人もいて、そうした人たちは見ていて憧れますね。

 芝居において、相手に与える演技をする「giver(ギバー)」と自分の演技に重点を置く「taker(テイカー)」という考え方があって、私はいまは与えるより受けとるタイプだと思っていて。芝居が上手な、まわりに影響を与えるギバーの俳優の方がいるからこそストーリーが始まっていくし、そういう人がいないと映画が成り立たないですよね。いつかは私もそういう演技をしてみたいな。

2025.05.19(月)
文=竹中万季
写真=佐藤 亘