同日 午後九時三十五分
透矢は玄関を開けると、明るい調子を装って家の奥に声をかけた。
「ごめんな、遅くなって!」
急いで運動靴を脱いで廊下をリビングに向かう。その途中、紙おむつに貼られた店のテープに気づいて慌てて外しながらも喋り続ける。
「それがさ、いつものがなくってさ、駅前のドラッグストアまで行ってて……」
透矢はリビングを見て絶句した。
青明の姿がなかった。
ソファの上に理久がひとり、泣き疲れた赤い顔で眠っている。パジャマのズボンの下を見ると、タオルとコンビニ袋で作った災害時用の簡易おむつをつけている。透矢は紙おむつを放り出して玄関に取って返した。
スカイブルーのラインの入った青明のスニーカーが消えていた。
青明がこんなふうに理久を置いて出かけるなんて初めてのことだった。
いったいどんな理由で、どこへ行ったのか、見当もつかなかった。交番相談員の大木の話が思い出されて心配でたまらなかった。だが、理久をこのままにして闇雲に捜しに行くわけにはいかない。
透矢は洗面所で石鹼で手を洗い、リビングに戻って買ってきた紙おむつの袋を開けた。
大木は数日前の日勤の帰りがけに、青明が児童公園で大人の男の人と大声で口論しているのを耳にしたという。
「それが、十万円がどうのこうのって言ってるのが聞こえてね」
中学生には大きすぎる金額に驚いた大木が自転車を停めて近づいたときには、男の方は駆け去っており、青明に事情を尋ねても、「誰とどんな話をしようが勝手でしょ」の一点張りで何も話してくれなかったという。
青明が透矢の知らない大人と連絡を取っていなかったか、電話で妙な様子はなかったか、いつもと変わったところはなかったか、大木にあれこれ尋ねられたが、思い当たることはなかった。このところ部屋に籠もりがちだったけれど、特待生に選抜されるために勉強しているのだと思っていた。
透矢の日常はこの町の中にしかない。だが青明には町の外の時間がある。小六と中三では、生きている世界の広さが違うのだ。
透矢は理久のおむつを替えてパジャマを着せると、そっと小さな頭を撫でた。寝かしつけをしなくても、理久はこの時刻にはとっくに自分で寝るようになっていたが、よほどくたびれたのだろう、着替えのあいだも目を覚まさなかった。
大木は、青明が何か困ったことに巻き込まれているのではないかと案じていた。
きっとそうに違いない。青明が今ここにいないことが、なによりの証拠だ。
大木から聞くまで何も気づかなかった自分が間抜けに思えて情けなくて腹立たしかった。ただでさえ、うちは困ったことだらけなのに。
透矢は理久の寝顔を眺め、それから台所に目をやった。
開いた間仕切り戸の向こう、台所では母の史子が宙に目を据えたまま座り込んでいた。流しのまな板の上に切りかけのトウモロコシやナスが転がっている。透矢が学校から帰ったとき、母は台所の床を両の拳で叩いて泣いていた。よほどのことがあったのだと思った。だが、透矢が何を尋ねても青明がどう宥めても、母は泣き通し、日が暮れてからはああして座り込んだままだった。
今朝は少し調子がよかったのに……。朝、母さんは理久に着替えをさせながら、今晩は庭でバーベキューで、お客さんがたくさん来るなんて夢みたいなことを言っていた。母さんはこの町に引っ越してすっかり壊れてしまった。いや、HASのやつらに、エプロンをつけたあの女たちに、よってたかって壊されてしまった。今日も母さんが家にひとりでいるあいだに、あいつらが来て何かしたのに違いない。そのことだけはわかっていた。わかっていても、この町ではどうにもならないのだ。
つけっぱなしのリビングのテレビからニュースが流れていた。
『東京外環自動車道の大泉インターチェンジ付近でトラックから牛一頭が落下し、一時、周辺が通行止めになりました。落ちた牛に怪我はありませんでした』
アナウンサーの声に続いて、一般の人がスマホで撮ったらしい高速道路に佇む牛の動画が流れた。
青明がいたら、きっと笑ってこう言っただろう。
「見て、母さん、高速道路にまさかの牛!」
たとえ母さんが何の反応も示さなくても、繰り返し粘り強くニュースや夕食の献立や洗濯物の乾き具合みたいな日常の出来事を話しかけることで、母さんの心を〈私たちの家〉に引き戻すのが青明だった。
だが、実際には誰の声もしない家の中に、ニュースより遥かに大音量の栄養ドリンクのコマーシャルが鳴り響いていた。
透矢は乱暴にリモコンを摑んでテレビを消した。
不意に訪れた静寂は、孤独と不安となって透矢の上にのしかかった。思わずポケットの中のスマホを握った。それでも、取り出すのは我慢しろと自分に言い聞かせた。だが長くはもたなかった。
透矢はスマホを出して、青明にラインでメッセージを送った。
『今どこ? 交番の大木さんに青明のこときかれた。十万円てなんの金?』
2024.11.16(土)