第一章 夏至の夜に始まった

六月二十一日 午後八時四十分

「最速で行ってきてよ!」
 姉のが、リビングからのけぞるように廊下へ顔だけ出して叫んだ。両手はムーニーのお尻拭きでの尻を拭いているのだ。階段下の物入れの戸が大きく開け放たれているのは、買い置きの紙おむつが切れているのを発見した際のしようげきをものがたっている。
「わかってるよ!」
 こんとうは運動靴をつっかけて玄関を出ると、一家に一台きりのママチャリにまたがり、紙おむつを買うためにぎでドラッグストアへと急いだ。最も近いのは旧商店街のドラッグストアだが、そこのカウンターの向こうに陣取っているおばさんの顔を思い浮かべるとたちまち気分が沈み、ペダルがぐっと重くなる。しかし、駅前の大型店舗まで行って戻るとなるとけっこうな時間がかかる。そんなに長く理久をおむつ無し状態で放置することはできない。
 透矢は意を決して旧商店街の方向へハンドルを切った。
 チリチリとした乾いた風がほおからのどを撫で、Tシャツの背中がふくらむ。そういえば、朝のお天気ニュースで今日は夏至だと言っていた。一年で一番長い昼が終わったあとの、今は一番短くて濃い夜なんだと思った。
 ペダルを踏みながら見上げると、正面の東の空に夏の大三角が浮かんでいた。てっぺんのひときわ明るいのがこと座のベガ、右に下がってわし座のアルタイル、そこから左に上がるとほのかな光を放つ白鳥座のデネブがある。夏至の空に描かれた巨大な三角形に向かって、力を込めて自転車を漕いだ。
 小学六年生の透矢は一歳半になる弟の理久と中学三年生の姉の青明、母との四人暮らしだ。三月の終わりに都内の安アパートからこのひらぎたにの庭付き一戸建てに引っ越してきた。一戸建てといっても築五十年の木造二階建て家屋は、母のふみが十八で家を出るまで住んでいた実家だった。祖母が亡くなり、わずかな土地家屋を相続することになったのだ。
 母は祖父母と長く絶縁状態にあったらしく、透矢が初めて対面した祖母は話そうにも鼻に綿をつめて棺に納まっていたし、祖父に至っては墓前で手を合わせて自己紹介をするありさまだった。経緯を尋ねても今の母にまともな説明ができないことは透矢にも青明にもわかっていたから、それについては触れないようにして、家の中のことは主に青明が司令塔となってさいはいを振るうようになっていた。
 青明は両親が離婚する少し前、中学受験をして中高一貫の名門女子校に合格していたので、この町に越してからも都内へ一時間かけて電車通学している。その女子校では年度ごとに奨学生と特待生を選抜する試験があり、青明は二年次、三年次と続けて奨学生の椅子を勝ち取り、来年は特待生を狙っている。特待生ともなれば授業料は全額免除なのだ。
 ここまで水をあけられると、ごく並の小六であるという自覚を持つ透矢としては屈折のしようもなく、青明は頭の出来が違うのだと納得していた。とはいえ、透矢にも得意とする分野があり、将来はその方面に進めればとばくぜんと思っていた。
 透矢は店の脇に自転車を停め、旧商店街のドラッグストアに入った。そして、〈HASハス〉のメンバーであるおばさんから予想どおりの不愉快な対応を受け、テープを貼ってもらった紙おむつを手に店を出た。予想をしていても、不愉快さそれ自体が軽減されることはない。その事実になにか割の合わなさを感じつつ透矢が自転車の方に歩き出したときだった。
 背後から声をかけられ、透矢は思わず足を止めて振り返った。
 通りに、三十歳前後の見知らぬ男が立っていた。ブルーのジップアップパーカーにストレートのブルージーンズ。縁のちょっと擦れたカーキ色のナイキのキャップをかぶっている。りようの細い端整な顔立ちだが、なにより驚いたのは、透矢を見ているその切迫したまなざしだった。
 男は目上の人に対するようにキャップを取ると、唐突に口を開いた。
「僕は、ふじくらしんいち。藤倉真一といいます」
 まるで透矢の記憶に刻印するように男は繰り返した。
 透矢はされて言葉も出ず、心の中で呟いた。
 だから、なに……?
 男は一度、素早く後方をいちべつすると、何かを託すように透矢の目を見つめた。
「今夜、僕に会ったことを覚えておいてください」
 そう言うなり男はキャップをかぶって駆け去った。通りを斜めに横切るスニーカーのミッドソールの白さが目に残った。
 透矢はあっけにとられて棒立ちのまま見送ったが、頭の中は疑問だらけだった。
 なんで? なんで覚えておいてほしいわけ? てか、何者? つか、誰?
「あ、藤倉真一か」
 ひょっこりと声に出た。
「もぉ、覚えちゃったよ」
 透矢はやれやれという気分で自転車のまえかごに紙おむつを入れ、ペダルを踏み出した。
 異常気象が続くと、おかしな人が出てくるのかなと思いながら広大な空に目をやった。あの空から最後に雨が降ったのはいつだったか、もう思い出せない。まったく雨のない空梅雨の六月が、あと一週間あまりで終わろうとしていた。うるおいの消えた風に、前籠の紙おむつの持ち手がひらひらと揺れている。
「やあ、お使いえらいね、透矢くん」
 前方から交番のおおさんがいつもの晴れやかな笑顔でやってきた。透矢は仕方なくブレーキをかけ、とりあえず控えめに微笑ほほえみ返した。大木まことは交番勤務一筋で定年を迎えたのち、再雇用された交番相談員なのだが、家族四人で引っ越してきて以来、この町で透矢のことを「透矢くん」と呼ぶのは大木ただひとりだった。そして、大木が話しかけてくるときは、その晴れ晴れとした笑顔に反して大抵いい話ではなかった。
「ちょっといいかな」
 透矢は、紙おむつを指して一応の抵抗を試みた。
「これ、急ぐんですけど。遅いと青明が怒り狂うんで」
「実は、その青明さんのことで、ちょっと心配なことがあってね」
「え……?」
 青明は品行方正で成績優秀、気が強すぎることを除けば、家族の中で最も非の打ち所がない人間なのに。
 透矢は思いもしなかったような不穏なことを聞かされる予感がして、とつにペダルを踏みかけた。だが一瞬早く、大木の手ががっちりとハンドルを摑んでいた。

2024.11.16(土)