プロローグ
開場の日は朝から雲ひとつなかった。生えそろったばかりの天然芝と真っさらなアンツーカーが北の大地の柔らかな陽の光を浴びている。球場のコンコースでひとり、その静謐な光景を飽くことなく眺め続けている男は球団のフロントマンである。濃紺のスーツにチームのシンボルカラーであるスカイブルーのネクタイを締めた彼の胸の裡にはひとつの感慨が宿っている。その感慨がいつまでも彼をその場に立たせていたのだった。
やがてそんな想いを知るよしもないファンたちが、フロントマンの脇を抜け、我先に自席へと駆けていった。それらは二人組の青年であったり、球団のジャンパーを羽織った老夫婦であったりした。おそらく駅から走って来たのだろう、息を切らした高校生らしき女の子がリュックから青と白のユニホームを取り出すと、足を止めることなくそれを羽織って内野席へと降りていく。
球春がやって来ても北国の春はまだ遠く、外気温は十度にも満たない。それでも人々は長蛇の列を作って開門を待っていた。三万席を超える客席が埋まるのに時間はほとんどかからなかった。まだガラガラのスタンドに酔客の野次が響き渡っていた時代からこの球団で働いてきたフロントマンには、コンコースに響く人々の足音と浮き立つ声が、まるで新スタジアムの産声のように聞こえていた。
ひとりの少年がフロントマンの横で立ち止まる。
「あれはなに?」
少年は父親を見上げて訊いた。指さした先にはセンター後方へと抜ける通路があり、その壁にひとりの老紳士が描かれている。画の中の紳士は恰幅の良い身体をダブルのスーツに包み、子供たちとともにボールを追いかけている。スポーツ選手でも芸能人でもなかった。
答えに窮している父親を見て、フロントマンは居ても立っても居られなくなった。
「あの人は、この球団をつくった人だよ」
少年と同じ目線にしゃがむと、父親の代わりに答えた。まだ十歳になるかならないかの少年はきょとんとした目でフロントマンを見つめた。知らない大人が突然話しかけてきたことに驚いたのか、あるいは「球団」を「つくる」ということの本当の意味がよく分からないからなのか。
「人にも物にも歴史があって繫がっているんだ。つまり、その……プロ野球チームをつくっているのはユニホームを着た人たちだけじゃないんだ」
少年は分かったとも分からなかったともつかない顔をしている。次の瞬間、あ、と声をあげると空を見た。
ブルーインパルスが雲を曳いていた。デルタフォーメーションと呼ばれる六機の編隊飛行で新スタジアムの上空を旋回していく。まるで大空を舞う鳥のようである。青年も、老夫婦も、ユニホームを羽織った高校生らしき女の子も、スタジアムにいる誰もが上を見ている。
この球団が翼を手にしたのはいつだろう。これほど眩しい光の中を自由に翔べるようになったのはいつからだろう。初めて自分たちのスタジアムを手にした。かつては想像もできなかった特別な日だからだろうか、澄んだ空を見上げるフロントマンの胸には「あの頃」が去来している。
始まりは今から二十年前だった。少年に語って聞かせるにはおよそ長過ぎる話である。そして、おそらくこれから先も世に知られることはないのかもしれない。しかしそれは、この球団にとっても、フロントマンにとってもかけがえが無く、決して忘れることのできない日々だった。
2024.11.14(木)