第一章  飛べない鳥

 カーステレオからラジオの野球中継が流れていた。張りを欠いた実況アナウンサーの試合経過によれば、チームはこの夜も負けていた。予想していたことではあるが、それでも微かな落胆が押し寄せる。なかもりようろうは運転手にステレオのスイッチを切るように言うと、後部座席のシートにもたれた。
 横浜市内のホテルを出て、首都高速湾岸線を西へ向かう車窓からは闇に光る東京湾が見えた。中杜は無音になった車内で今しがた会った人物について考えていた。はたして、このチームを変えることのできる男か、否か——。
 数時間の会談の中でその根拠になりそうな何かを見出せたわけではなかった。初対面の人物を履歴書とわずかな会話だけで判断することには慣れていたが、それにしても今日会った人物はこちらに材料を与えなかった。無口で表情もほとんど変えない男だった。それでも球団職員の「いかがですか?」という問いに頷いたのは、もう目の前のカードを手にする他に選択肢がなかったからかもしれない。
 車は一時間ほどで鎌倉の邸宅に着いた。中杜はがらんとした玄関で革靴を脱ぐと、螺旋状の階段を上がった。二階のリビングに妻の姿が見えたが、帰宅を告げる以外に言葉は交わさず、そのまま三階の書斎に入った。ジャケットを脱ぐより先に小型ラジオのスイッチを入れる。試合はこれから九回裏が始まるところだった。車内では六点だった差が、十点にまで広がっていた。再び微かな消沈に襲われる。
 自分が不思議だった。父が他界するまでは夜にラジオの野球中継を聞いたことなどなかった。日本ファインミー食品という巨大企業の後継者として生きていた頃の中杜は、父が愛した野球というスポーツも、父がつくったウイングスという球団もどこか遠ざけてきた。本業では決して敗北を許さなかった父が、こと野球に関しては、なぜ万年Bクラスの球団をあれほど愛し、許したのか。その理由が分からず、不満すら抱いていたからだ。
 書斎の壁には肖像画が掛けられていた。部屋とは不釣り合いに巨大なその画はかつて本社の大ホールにあったものだ。額装された画の下部に金色のプレートが光っている。
『日本ファインミー食品創業者 中杜かずよし
 亡父は恰幅の良い身体をダブルのスーツに包み、記憶にあるそのままの笑みをたたえて、中杜を見下ろしていた。「近代日本の食卓を変えた男」と呼ばれた父のことは結局、最後まで分からなかった。なぜ、あらゆる能力を備えた兄ではなく、次男である自分を後継者としたのか。自分に何を望んでいたのか。そして、なぜウイングスを愛したのか。病に伏した最後の一年は鎌倉のこの家でともに暮らしたが、ついに問うことはできなかった。
 午後九時を告げる柱時計の音が階下のリビングから聞こえた。それと、ほとんど同時に書斎のドアがノックされた。
 妻のすみの声がした。
「本社のはたけやまさんからお電話です」
 夜の電話。それだけで胸がざわつく。中杜はラジオを机の引き出しにしまうと、椅子から動かずに言った。
「この時間の電話は取り次ぐなと言ってあるだろう」
 わずかな間を置いて、妻は言った。
「畠山さんはそれを承知でかけてきています」
 声に意志を感じた。
 中杜は目を閉じると、気持ちが落ち着くのを待ってから立ち上がった。
「——中杜です」
 リビングの電話を手にすると、粘り気のある声が耳に絡んできた。
「これはオーナー、夜分に失礼いたします」
 畠山かずひことは二十代の頃に、豚肉加工事業本部の先輩後輩という間柄で仕事をしたことがあった。当時から営業力と事務処理能力を兼ね備えたエリート肌だったが、人間関係に粘着質なところがあった。そして、中杜に代わって社長の座についてからはさらに湿り気が増していた。
 入社は二年、結婚と取締役昇任は一年、いずれも中杜が早かった。仕事もプライベートも並走するように生きてきた。そんな畠山が、三年前のあの日から中杜がどんな思いで生きてきたか、なぜ夜中の電話を避けるのか、知らぬはずはなかった。やはり畠山はあえてこの時刻にコールしてきたのだ。
「何か急な用件がありましたか?」
 中杜は感情を封じ込めて訊いた。
 畠山はゆったりと切り出した。
「かねて考えていた社是の改定なのですが、次の取締役会で議題にすることにしました。中杜さんにはまずお伝えしておかなければと思いまして」
 相談ではなく、通達であった。些細な言い回しのひとつひとつに、かつてとは立場が逆転していることを思い知らされる。
 日本ファインミー食品の社是は「中杜の四訓」と呼ばれ、創業当時に父が書いたものをずっと守ってきた。だが、それもついに失われる。畠山が議題にするということはすでに根回しが終わっているということだ。肖像画と同様に、またひとつ創業家の痕跡がこの企業から消えるのだ。
「ところで、今日の試合はご覧になりましたか?」
 畠山は話題を変えた。
「……いえ、見てませんが」
「残念ですが、最下位が決まりました」
 畠山はわざとらしく声のトーンを落とすと、それから急に突き放すような口調になった。
「本社としてはあまり悲観しておりませんが、これ以上の赤字とグループのイメージダウンは避けていただきたいものです。そのために、中杜さんにオーナーをお願いしたわけですから」
 誰がこの企業のトップであるか。創業家が今、どういう立場にあるか。畠山は言外に伝えることを忘れなかった。一言、一言が中杜の心をくじく。陰湿さの裏返しでもあるそのしたたかさと用心深さは、彼を社長の座に押し上げたものの一つに違いなく、あの頃の中杜に欠けていたものかもしれなかった。
 中杜は無力感に襲われたまま、返答した。
「……分かっています」
 それを聞くと、畠山は満足そうに語気を和らげた。
「ああ、そういえば、来シーズンに向けてフロントマンを一人、補強したとか」
 球団オーナーである中杜がわずか数時間前に会って契約を決めた人物のことを畠山がもう知っている。ひとつの顔が浮かんだ。づかしず。本社の専務取締役であり、二年前にウイングスの球団社長となった。本社内で畠山の腹心として知られる小塚は明らかにオーナーである中杜より畠山の方を向き、それを悪びれる様子もなかった。無理もない。今の中杜が抜け殻であることは畠山や小塚のみならず、本社の人間なら誰もが知っていることだった。
「それでは来シーズンを楽しみにしています。オーナー」
 畠山はそう言うと電話を切った。最後の言葉につけられた妙なイントネーションが耳に残った。
 夜のリビングには柱時計が秒を刻む音だけが響いていた。
「畠山さん、なんでした?」
 背後で純子の声がした。言葉に微かな憤りが込められている。それは畠山だけではなく、自分にも向けられていることが中杜には分かった。電話を取り次いだのがその証だった。
 午後九時以降の電話には出ない。あの日を境にそう決めた。夕食の後は逃げるように書斎に閉じこもるようになった。そんな夫に対して妻は、もういい加減に立ち上がれと、そう言っているのだ。
 社長の座を追われることになった事件の発覚から三年が経っていた。だが今もとめどない後悔が押し寄せる。自分の中のどこを探しても、あの夜から這い出して、一生終わることのない贖罪と向き合うだけの力は見当たらなかった。だから、妻のメッセージにも応えることはできなかった。
「なんでもない……」
 純子にそう答えると、中杜は目を合わせることなく、再び書斎に上がった。ドアを閉め、机の引き出しから再び小型ラジオを取り出す。試合は続いていた。実況アナウンサーの声の後ろに微かな歓声が聞こえる。九回裏ツーアウト、勝敗にほとんど影響することのないソロホームランに対するものだった。厳密に言えば、まだウイングスの最下位は決まっていなかった。だが、電話での畠山の言葉に噓はなかった。確かに決着はついているのだ。
 そういえば——。ふとよぎった。野球に関心がないはずの畠山が自らウイングスの話題を口にしたことがこれまでにあっただろうか。中杜の耳をいたぶるのが狙いなら、他にいくらでも方法はあるはずだった。なぜ……。
 だが、答えの出ない疑問について考えることはすぐに諦めた。専務に降格した後、中杜に与えられたのは球団オーナーという立場だった。どんな思惑があるにせよ、畠山の人事に救われたのは事実だった。不祥事の後はどこにいても突き刺さるような視線を感じていた。そんな中杜にとって本社業務とは切り離されたオーナー職はただ一つの逃げ場だった。
 椅子の背にもたれ、深く息をつく。書斎の窓からは遠くに灯りが見えた。父はこの春に逝った。晩年はよくこの窓からスタジアムの方角を眺めていた。最期の瞬間までウイングスを気にかけていた。オーナーとしての中杜を動かしていたのはそんな父の思いと、この球団が父と自分を繫ぐ最後の場所であるという事実だった。
 最後のバッターが浅いフライを打ち上げたところで中杜はラジオのスイッチを切った。最下位が決まった。創設以来一度も優勝したことがない球団は、その名とは裏腹に「飛べない鳥」と揶揄されたままだった。

2024.11.14(木)