同日 午後十時二十分
神澤光叶はオンライン講義の受講を終え、ほっと一息ついてヘッドホンを外した。今期で最後の講義だったこともあり、生徒たちのあいだでも活発に意見が交わされた。光叶はキーボードを打ち続けたせいでくたびれてしまった両手を振ってから、コップに注いだストレート果汁の和梨のジュースを飲んだ。
冷蔵庫にある冷たい梨のジュースをもう一杯飲むために、二階のキッチンに下りてもいいかなと思った。まだ十一時前だから父は間違いなく帰宅していない。父は常に終電。そうでなければ会社近くのビジネスホテル——真偽は別として母にはそう言っている——に宿泊する。母も、それがなぜ決まった曜日なのか、とあえて尋ねることはない。
父は光叶を見るとき、不治の病に罹った者を忌むような目をする。それが嫌で、光叶は出くわさずにすむように、休日も含めて父の在宅時間をほぼ完全に頭に入れていた。
光叶は自室の扉を開け、母が二階の浴室を使っている音を確かめると素早く二杯目をコップに注いで戻った。母とは毎日二人きりで食事をしているから顔を合わせてもいつもなら平気だった。だが、今日はなんだか様子がおかしかったのだ。
午後遅く、喉が渇いて階下へ向かうと、母がエプロンをくしゃくしゃに丸めて台所のダストボックスに押し込んでいた。それから、いてもたってもいられないという様子で家を飛び出していった。光叶が階段にいたのにも気づいていないようだった。
夕方帰ってきてからはずっと、まるで体の中に毛を逆立てた猫が住み着いたようにおかしな感じだった。恐怖と怒りが一緒くたになって、もう何を威嚇しているのかわからなくなっているような猫。
でも僕は、母さんの話し相手にはなれない。
それはお互いに承知していることだった。
光叶は二杯目の梨ジュースを半分飲んで机に置くと、自室の窓を開けた。一階はガレージとささやかな応接間。二階はリビング、キッチン、浴室などがある共有スペース、三階が光叶の部屋と両親の部屋になっている。
光叶は静まりかえった夜の住宅街に目を凝らした。それはいつのまにか癖になった気晴らしのようなもので、光叶は〈時間の中のまちがい探し〉と呼んでいる。
始まりは三歳のとき。母が連れていってくれたイタリアンのファミリーレストランで、〈まちがい探し〉の載ったメニューを初めて見た。〈まちがい探し〉は二つのとてもよく似た絵の中で違っている箇所を見つけるゲームだが、光叶は大人が一時間かかっても見つけられなかった十個の間違いを、ほんの三分で全部見つけてしまったのだった。
〈時間の中のまちがい探し〉では、オンライン講義の前に窓から見た風景と、受講後に見る風景とを比べて違っている箇所を見つける。視覚にだけ神経を集めてリラックスする、光叶が考え出した就寝前のゲームだ。
夏の大三角が南東の空に輝いていた。九十五分経っているから前より二三・七五度、昇った計算になる。その左下の大きなマンションが光叶のゲーム盤だ。窓の数は百十六。新たに灯りが点いた窓、消えた窓、灯りが点いたままカーテンが引かれた窓、レースのカーテンだけの窓、この時間帯にはたくさんの窓に変化が起こっている。いつものように〈まちがい〉を確認していると、視界の隅で思いがけないことが起こった。
川の土手の一番近くに、光叶が幼稚園の頃から〈お菓子の家〉と呼んでいる古く立派な日本家屋がある。光叶の部屋からはその二階に並んだ五つの窓が見えるのだが、昨日までの四十六日間、ずっと二階に灯りが点かなくなっていた。家の前を通ると表札はそのままだったから引っ越したのではない。ただ、それ以前も灯りが点くのは二階の真ん中の窓だけだったので、家の人が二階を使わなくなったのか、ひょっとしたら長い旅行にでも出たのかなと思っていた。
ところが今、左端の窓に灯りがともり、障子窓の向こうで動く人影が見えたのだ。次いでその隣の窓が明るくなり、また障子窓に人影が映った。そうしてまたひとつ、またひとつ……。〈お菓子の家〉の二階の窓すべてに灯りがともるなんて、光叶が知る限り初めてのことだった。夏至の夜なのにクリスマスみたいだなと思った。
きっと家にお客様が来て、賑やかな楽しい夜を過ごすのだろう。
眺めているうちに気持ちが和み、眠気が襲ってきた。
光叶は部屋の窓を閉め、カーテンを引いた。
2024.11.16(土)