この時系列からも想像できることだが、本書は直球のスポーツ小説というよりも、むしろジャーナリスティックな視点からスポーツを描いた小説、という特徴を備えている。作品の冒頭では、パンデミック下で開催された東京五輪の放送中に金権体質やメダル至上主義、礼賛一色の報道を辛辣に批判した大学教授が姿を消す。数年後、ある世界的IT企業がオリンピックに対抗するスポーツイベントを仕掛けているという情報を摑んだスポーツ紙記者が真相を追い始める。IT企業関係者や様々な競技の元オリンピアンたちを取材していくと、やがてその大会の全貌が徐々に姿をあらわしはじめる……。

 世に数あるスポーツ小説の中でも、このような角度からオリンピックを取り上げた作品はきわめて珍しい。視点人物となる主人公に新聞記者を設定しているところにも、作者の意図が窺える。しかも作者は、この主人公に、ハードボイルド小説の伝統に則った観察者の役割を与えるだけではなく、彼のスポーツやオリンピックに対する考えや行動原理に、いかにも日本のメディア業界人らしい、ある特徴を付与してもいる。マスコミ企業の旧弊な装置産業的側面や、オールドメディアにありがちな無自覚で無邪気な特権意識、というその特徴が折々に挟まれることにより、読者が彼の思考や価値判断を無批判に受け容れて感情移入するのではなく、作品の奥に横たわる主題に対してさらに俯瞰した批評的視点と距離感を持つように作り込んでいる。じつに巧妙な仕掛けだ。

 では、著者がこの作品で読者に問いかける主題とは何なのか。それは、世の人々が東京五輪関係者に何度も何度も訊ねながらも、ついぞ明快な答えが返ってこなかった問い――「オリンピックとはいったい誰のために、何のために開催するのか」という疑問だ。

 じつはそのあたりについて、堂場さんご自身に話を伺ったことがある。拙著『スポーツウォッシング』を集英社から刊行した際に推薦文をお寄せいただいたことがご縁で二〇二三年秋に対談をさせてもらったのだが、その際に本書の成立事情を訊ねたところ、堂場さんはこんなふうに明かしてくれた。

2024.08.23(金)
文=西村 章(スポーツジャーナリスト)