本書の中心をなす第II部「山本連合艦隊司令長官の戦死」と第III部「福留参謀長の遭難と救出」は、それぞれ「海軍甲事件」「海軍乙事件」という小説のもとになった証言である。どちらも『海軍乙事件』(文藝春秋、一九七六年)に収録されており、照らし合わせることができる。

 吉村は、一九二七年生まれの戦中派世代にあたる。戦後のアメリカへの従属と民主主義の到来を言祝ぎながらも、軍国主義批判の高まりによって、戦時下の真実がかき消されていくことに眉をひそめていた。戦争中にも日常があり、日本人の多くは黙々とみずからの仕事を続けていた。しかし、そうしたなかで戦争の拡大を防ぐいくつかの契機があったにもかかわらず、軍と一体となった国家はそのチャンスを逃し、隠ぺい工作をつづけた。「海軍甲事件」「海軍乙事件」という呼び方で匿名化された事件は、太平洋戦争における日本軍の失敗例である。ひとつは日本軍の暗号がアメリカに解読されていることに気づかないまま、連合艦隊の最高司令官をみすみす死なせてしまった。その護衛機に搭乗していた飛行士の生々しい証言は、戦争の潮目の転換がどのように起きたかを物語っている。もうひとつの捕虜交換事件は、ゲリラ討伐隊が救出部隊に転じたときの大隊長、捕虜引き渡しを担当した副官、捕虜となった参謀長機の搭乗員の立場から、それぞれ証言が引き出される。捕虜交換に現れたフィリピン人ゲリラがなごやかな空気のなか、「ノー・ポンポン」と、互いに銃を撃ち合いたくないという意思を示していたなど、印象的なエピソードが記録されている。そうした証言のあいまから、参謀長らが捕虜となった事実自体を隠し、その一方で兵士に死を強いた日本軍の不合理な精神主義が浮かび上がってくる。

 第IV部の「伊号第三三潜水艦の沈没と浮揚」は、『総員起シ』(文藝春秋、一九七二年)に書かれた潜水艦沈没事故をめぐる証言が集められている。しかし、それにしても日本海軍は伊号第三三潜水艦について何度、事故を起こしたことか。最初に出撃したソロモン諸島方面で修理作業中に沈没し、三三名が犠牲になった。その後、引き揚げられ、呉海軍工廠で完全修理がなされたが、瀬戸内海で訓練中にふたたび浸水、沈没。乗員一〇二名が亡くなった。この潜水艦が稼働したのは最初は三ヶ月、二度目は二週間足らずである。もっとも科学的で軍事技術、造船技術の粋を極めたはずなのに、このようなミスがくり返される。しかも、ここでもやはり徹底した情報統制と隠ぺいが行われた。

2024.08.11(日)
文=紅野 謙介(日本近代文学研究者)