一方で、時代を早足に駆け抜けていった作家たちも随筆に多く登場する。「野枝さんのこと」「芥川さんに死を勧めた話」「宮本百合子さんを憶う」で描かれる伊藤野枝、芥川龍之介、宮本百合子は、長くはない生涯を送った時代の勇士たちである。彼らに対する彌生子の言葉は真摯だ。とくに、二十八歳でむごい殺され方をした伊藤野枝に関する随筆に胸を打たれる。激しいイメージの野枝であるが、彌生子の文章は、そんな彼女の本質であるところの「可愛らしさ」を読者の胸に印象付け、後世に語り継ぐ。人間の本質を見つめる彌生子のまなざしは、強く、確かなものであり、時代や社会に翻弄されることは決してない。
本質へのまなざし、これが太い杭のようにしっかりと作家の中に打たれていなければ、生き抜き、書き続けることはできない。「五月の庭」では、社会がどのように変化しようとも根強く命を保ち、花を咲かせる自宅の藤の花を見つめ、こう記した。
どんなことをしても生きなければならない。成長しなければならない。花を咲かせ、実にならせなければならない。下の棚で生きて行くのがむずかしいなら、どこか生きられる場所を探さなければならない。
「生きられる場所」が必要なのである。そこで、花が咲く。一方で、先にも紹介した随筆「山草」の中では、崖ぞいの斜面に群がり咲いた「がんぴ」を見て彌生子はこう述べた。
咲かなければならないものは、また咲きうる力をもっているものはいつかは屹度花になるのだ。
「がんぴ」が「がんぴ」の花を咲かせること、それが本質だ。藤は藤の花を咲かせる。「がんぴ」に藤は咲かない。野上彌生子は野上彌生子の時間を全うする。そのために「生きられる場所」が必要なのである。
彌生子は「生きられる場所」に天性的に恵まれていた。彼女の生家は大分県・臼杵市の醸造家であった。酒や味噌、醬油などをつくり、財をなし、後には「フンドーキン醬油」として発展した。彼女はこんな実家において、理解のある両親のもとにすくすくと育ち、文学に目覚めた。十四歳で上京し、叔父の家に世話になりながら明治女学校に通い、同郷の帝大生・野上豊一郎と交流をもつようになった。知識があり、性格は穏やかな人であった。この人と結婚すれば文学を続けることができる、という彌生子の直感は的中し、結婚後、夫の収入がそれほど多くはない時期においてさえも、女中を二人もおいてくれた。おかげで、彌生子は家事などに忙殺されることなく、好きな文学の勉強に邁進することができた。
2024.07.26(金)
文=ソコロワ山下 聖美(文芸研究家・日本大学芸術学部教授)