さらに、夫・豊一郎を通して彌生子は夏目漱石を知ることができた。自ら書いた小説を読んでもらい、文壇的には、漱石門下という、近代文学史上、最大の派閥の一員となった。女性作家の派閥と言えば、当時話題になったのは、平塚らいてうを中心とする、女性による、女性のための革新的な文芸雑誌「青鞜(せいとう)」だ。「青鞜」は世間の注目を浴び、らいてうたちは「新しい女」と呼ばれ、もてはやされた。彌生子も誘われたが、すぐに脱退してしまった。その理由は、「ジャーナリズムにも乗せられ、私の書斎主義では同調されなくなった」ためだ。彌生子にとって「青鞜」は「生きられる場所」ではなかったのである。

 女性の自立を訴え、社会の変革を求めた「新しい女」たちからしてみれば、彌生子は保守的と映ったことであろう。家や時代、社会への変革を求めないし、冒険はしない。身の丈にあった安定感のある「生きるための場所」を得、守ることに徹した。こんな彌生子に、私はサッカーのゴールキーパーの姿を重ねる。守ることに徹し、最先端で攻撃はしないため、それほど注目は浴びない。しかし、守る力は偉大だ。なぜならば、キーパーが守り続け、守りきれば、絶対に負けないからである。

 こうした彌生子の保守の精神は、何よりも、師匠・夏目漱石の存在があってこそのものであった。「夏目先生の思い出――修善寺にて――」には、漱石への思いが綴られる。「読んで頂く人として先生をいつも一番に頭に入れていた」という言葉を読むと、時代に流されない本質へのまなざしは、心から信頼できる漱石という師匠がいたからこそ、確固として彌生子のなかに深く根付いていたことがわかる。

 そもそも彌生子の文壇デビューは漱石に作品を認められたことに始まる。彌生子はこの恩と尊敬を、終生抱きながら文学の道を歩んでいった。翻訳を行い、短編小説を地道に書き続け、三十七歳で『海神丸(かいじんまる)』を発表し文学者としての成長を示すと、四十三歳から四十五歳にかけて長編『真知子』を書き上げた。五十歳代から戦争を挟んで七十歳代にかけては大長編『迷路』を完成させ、読売文学賞を受賞する。七十歳代後半からは迫真の名作『秀吉と利休』を書き、女流文学賞を受賞した。野上彌生子文学は、開花した。

2024.07.26(金)
文=ソコロワ山下 聖美(文芸研究家・日本大学芸術学部教授)