本書では、了助の剣の師であり、精神の師でもある義仙が、敵と戦い凄まじいアクションを見せ、剣を捨て禅僧になった悲しい事実も明らかになる。禁教令で棄教を拒む多くの切支丹が殺されたが、処刑に倦み病と称して職を辞す者が続出した。そこで幕府は切支丹を処分する「禁教の士」の派遣を決め、義仙もその一人に選ばれ死体の山を築いた。自分を殺す者の幸いを祈る切支丹を処刑した義仙は、罪悪感を植付けられ剣の修行を名目にして乱暴狼藉に明け暮れた。それでも義仙は、人を殺すのではなく人を活かすための「活人剣」を習得することで救われたいと考え、剣の修行だけはやめなかったという。
武士として生まれ上からの命令は絶対と信じていた義仙は、多くの切支丹を殺したことで、悪夢に苦しめられるようになるが、剣の修行を続けて悟りを得て、武士としての自分を消し一個の人間になれた。実父を殺され敬愛している犯人を殺したいという地獄を見た了助は、義仙の告白を聞き、どのようにすれば自身の地獄が払えるかを考えるようになる。光國と了助が追う極楽組とその協力者も、政争に敗れたり、一方的な、あるいは理不尽な処罰で平穏な生活を奪われ地獄に叩き落された経験を持っているが、地獄を抜け出すのではなく、無関係な人を巻き込んででも地獄を広げようとしている。江戸を地獄にするという執念が結実するクライマックスは凄まじく、了助たちの戦いも苛酷になっている。この戦いは、地獄の底まで落ちる道と地獄を克服しようとあがく道では、どちらを選ぶ方が幸福になれるのかを問い掛けているのである。
著者が史実を掘り下げ、壮大な陰謀の原因を敗者の怨念にしたのは、“問題の先送りやミスの放置が数年後、数十年後に思わぬ形で災厄に繋がる状況には普遍性がある”と示すためだったように思える。常に自分の力では修正できない歴史の流れに翻弄される小さな個人は、生まれた時代、家庭環境、友人関係、導いてくれる先生や上司の違いによって人生が左右されるのも珍しくない。あまりに長く不遇が続くと、その原因を悪い時代、悪い家庭、悪い友人、悪い先生などに求めダークサイドに落ちる危険があるが、地獄を見ながら踏みとどまり逆に地獄を払おうとする了助は、ついに一つの結論を得る。光國、罔両子、義仙らに導かれながら極楽組と長く戦い、多くの死者を目にすることで成長した了助がたどり着いた境地は、主要先進国の中で若者の自殺死亡率がトップの現代日本で生活するすべての人へ向けた強いメッセージになっているのである。
本書のラストを読むと、人生は長い旅なので明るい時も暗い時もあるが、諦めずに生き続けなければ楽しいことが経験できないと気付かせてくれるはずだ。
剣樹抄 インヘルノの章(文春文庫 う 36-4)
定価 902円(税込)
文藝春秋
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2024.07.19(金)
文=末國 善己(文芸評論家)