明暦の大火が広がった裏には、火付け、強盗を繰り返す極楽組の暗躍があり、さらなる陰謀をめぐらす極楽組と了助ら拾人衆との戦いが本格化する。その過程で、実父を殺したのが自分が慕う男と知った了助は仇討ちをしようとするが、列堂義仙に取り押さえられ、廻国修行として日光へ向かう。これが『剣樹抄』と続編『剣樹抄 不動智の章』の概要で、シリーズ第三弾となる本書『剣樹抄 インヘルノの章』は、了助と義仙の旅の途中から始まる。前作のタイトルは、何物にも動かされない智慧を意味する仏教語で、義仙との旅で禅に触れた了助が、実父を殺した男への恨みを乗り越えようとした。キリスト教で地獄を意味するインヘルノをタイトルにした本書は、過去に囚われ憎悪を募らせた者たちが江戸を地獄にする陰謀に、成長した了助が挑むことになる。

〈剣樹抄〉シリーズは巧みに虚実を操っており、勝山、水野十郎左衛門、幡随院長兵衛ら実在の人物のエピソードを物語にからめている。さらに無宿人に育てられた了助の目で、武断から文治への世の変化に対応できなかったり、昔を懐かしんで変化を拒む者たちが起こす事件を見ることで、武家社会の矛盾を暴いている。シリーズ全体を貫く構図は、長引く経済の低迷が好景気だった昭和を懐かしむ風潮を生み、生活のために理不尽に耐えることを強いるケースもある現代日本と重なる。了助が迷い苦しみながらも、こうした後ろ向きな思考に立ち向かうからこそ感動と痛快さが味わえるのである。

〈剣樹抄〉シリーズは現代の特に若い世代が共感できる物語になっているが、それだけではない。了助の宿敵になる剣客・錦氷ノ介は、初登場時は隻腕で後に隻眼になり、「悪目立ちする姿と美貌」で口元には冷笑をうかべ、「女物の羽織をわざわざかけて風になびかせ」る(かぶ)いた格好をしている。隻眼隻腕、女物を身に着けているところは林不忘が生んだ怪剣客・丹下左膳を、また美男子でニヒルなところは柴田錬三郎が生んだ眠狂四郎を彷彿させる。日光を目指す了助と義仙の旅は、財宝の在り処を記す「こけ猿の壺」を手に入れた少年チョビ安を守って丹下左膳が日光へ向かう林不忘『丹下左膳 こけ猿の巻』『丹下左膳 日光の巻』を思わせるなど、名作のエッセンスが導入されているので、古くからの時代伝奇小説のファンも満足できるだろう。列堂義仙(創作物の中では柳生烈堂などの表記もあり)は、小池一夫原作、小島剛夕画の劇画『子連れ狼』などの影響もあり、汚れ仕事を引き受ける柳生の刺客集団・裏柳生のトップとされることも多いが、著者は柳生家の菩提寺・芳徳寺の初代住持になった禅僧という史実に近い列堂を描いてジャンルの刷新を行っており、剣豪小説好きは驚きが大きいのではないか。

2024.07.19(金)
文=末國 善己(文芸評論家)