この記事の連載
- 『なぜ、沢田研二は許されるのか』前篇
- 『なぜ、沢田研二は許されるのか』後篇
「己を貫く強い人」か「融通が利かない頑固者」か――。
歌手として一生懸命、自分の主義を貫くのにも一生懸命、仲間とつながり続けるのも一生懸命。評価が上がろうが下がろうが。
ジュリーの活動から「自分を更新する生き方」を考える『なぜ、沢田研二は許されるのか』(田中 稲著/実業之日本社)より、一部を抜粋し掲載します。(前後編の前篇)
「空気」は読まない
全盛期の試行錯誤はもちろんだが、沢田研二の最大のトライ&エラー期といえば、テレビから姿を消した、平成の時代ではなかっただろうか。1990年頃から、長年彼の主戦場だったテレビの歌番組との相性がずれていくことを感じ、距離を取っている。役者活動では朝の連続テレビ小説『はね駒』(NHK)などの演技で大きな評価を得ていたものの、歌手活動はあくまでライブ中心にこだわるようになった。
当時は歌謡界だけでなく、世の中も大きく仕組みが変わってきた頃だった。異常なほどに浮かれたバブル景気がはじけ、「気楽な稼業」「勝ち組」とされていた会社員に、リストラという不穏な言葉がつきまとうようになる。終身雇用や年功序列といった、1960年代後半以降の高度成長期、大量生産を支えるために敷かれた日本の大企業システムが揺さぶられた時代だったのだ。
沢田研二と同じ団塊の世代は、ちょうどこの時、40代。その淘汰される古い価値観の中心世代、タテ社会の住人として風当りが強くなっていった。ちなみに、1990年3月27日号の『AERA』(朝日新聞社)に、他の世代から見た「団塊の世代の八悪」が紹介されている。
(1)過剰 意義づけこれがないと動けない
(2)理論過多 周りにいるとうるさい
(3)押しつけ 自らの主張の行きつく先を押しつけたがる
(4)緩急不在 何事にも積極的だが、せっかちすぎる
(5)戦略不在 目先の戦術だけに強く、長期的ビジョンがない
(6)被害者意識 他世代への加害者意識はなく、もっぱら被害者意識ばかり
(7)指導力不足 過当競争の中でリーダーシップを忘れてきた
(8)無自覚 以上の点に全く気づいていない
散々な言われようである。生まれた年だけで、一括りにされてはたまったものではないが、中年層の肩身が狭くなっていたことは間違いない。
2024.07.18(木)
文=田中 稲