深い挨拶はせずに定型として自然な程度に留める。山田もそこは分かっているようで、微笑みながら頷いたのみだった。

「さっきのスタジオの騒ぎ、聞こえた? うちのコーラちゃんがド派手に転んで、まさかのビリビリ椅子に手ぇついちゃって。スタッフも笑いこらえんのに必死よ。その後も騒ぎながらどっかに消えちゃうし。昔っから、お騒がせ制作女子なんだよねぇ」

 なにやらそれっぽい騒ぎの音は聞こえていたが、あまり気にしていなかった。身の丈に合わないゴールデン特番の統括プロデューサーの現場を前にしてテンパってたんだと思う。幸良さんはあたしがテレビに出始めたころに深夜の番組で何度か仕事したことがある。いい人・トラブル体質・この業界に十年以上いるとは思えない田舎っぽさ、という三要素しか記憶にない。またトラブルに見舞われてるのだろうが、この放送はきっちりやってもらわないと困る。

 そんなあたしの心境を察してか、「大丈夫、ちゃんとやるように俺からも言っといたから」とだけ言い残して山田は去って行った。編成局長から“ちゃんとやるように”と言われるプレッシャーはサラリーマンをやったことのないあたしにも想像できて背筋が冷えたが、所詮は他人事なのですぐに背筋はぬくもりを取り戻す。短いやり取りで山田が立ち去ってくれたことへの安堵の方が強かった。

 トイレから戻ると、出演者たちとディレクター数名が談笑していた。面倒くさいなと思いつつも、ここはちゃんと参加して空気を作っておいた方がいいな、と思い気合いを入れるが、あたしが入室した直後に、プロデューサーの幸良が現れた。ユニクロで売ってそうな無地のパーカーとニューバランスのスニーカーという、動きやすそうな服装をしてる。三年目のADと言われても特に疑いを持たないくらいには垢抜けていない。

「皆さん、本日はよろしくお願いします」

 統括プロデューサーがわざわざ前室に来るのは、番組にもよるがわりかし珍しい。とはいえ、あたしは幸良の口から発される言葉の予想はついている。

2024.07.07(日)