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短歌という「定型」によって守られている感覚

岡本 私は、先に感情が爆発することってあまりないんですよ。むしろ書くことで、心にあるプールの底にタッチしに行くような感覚があって、そこで「あぁ、私はこれが言いたかったんだな」と涙が出ることはあるのですが、書きながら泣いたことはない。

塩谷 そうなんだ! その違いはもしかすると、書き始めたときの年齢による差もあるのかもしれない。まほぴは大人になってから短歌を始めたと言っていたけれど、私は小学生の頃からブログを書き始めたんだよね。当時、教室の中で居場所があまりなかったから、ネットに向けて「私の話を聞いて!」と吐露し始めたんだけど、今もその延長線上で書いている気がします。

岡本 じゃあ、呼吸したり、食事したりすることと同じくらい、書くことが身体に沁みついているんだ。きっと塩谷さんにとっては、ネイティヴな言語としてエッセイがあるんだろうね。私は短歌という言語を後天的に習得しにいって、第二言語としてそこでの伝え方がわかってきた。だからこそ、最近は第三言語としてエッセイを書くのが楽しくなってきたし、いずれは小説も書きたいと思っているんです。でも塩谷さんにとっては、エッセイを書くことは第一言語なんだな、とわかってすごく腑に落ちました。

塩谷 私も今、すごく腑に落ちました(笑)。

 ただ、まほぴの短歌も「昼の言葉」だけではないよね。歌集の中には、具体的な文章であるエッセイでは書きづらいような恋や性の歌なんかも収録されていて、読んでいてドキドキしてしまった。そうした内側の歌を公にすることに対して、恥ずかしさや躊躇いはなかったの?

岡本 よく「こんなに赤裸々に書いて大丈夫?」と言われるのですが、私は五七五七七という短歌の定型によって守られているように感じているんです。まず容れ物があって、そこに言葉をいれているから、むき出しの魂を世に晒しているわけじゃない。だから本当のでき事をそこに書いていたとしても、それによって何かが損なわれるような感覚はないんですよね。

塩谷 五七五七七という定型が服となり、心を守ってくれてるんだね。

“視点の異なる友人”を持つ方法としての本

塩谷 では、最後にもう一つ聞いてみたかったことを。SNSでも文章が発表できる今の時代に、あえて紙の本を出すことへのこだわりってありますか?

岡本 私はネットに文章をそのまま放流するのは、少し怖いなと思っているんです。たとえば雑誌の連載も、それがWeb記事として切り取られてネットで拡散されると、文脈が伝わらず炎上してしまうこともある。でも本は、中身を守ってくれるんですよね。エッセイを書くとなると、自分の内面や感情、経験談を書いていきたいのだけれど、本を買ってくださる方に向けてであれば、安心して書くことができる。

塩谷 短歌の定型が守ってくれる上に、さらに本という媒体も守ってくれるんだね。

岡本 そう。最近のSNSって、信じられないくらい荒れているじゃないですか。だから、そこでは以前のように自分の気持ちを書けなくなってきてしまった。そうした状況がある今だからこそ、逆に本に関心が向いているんです。昔の人のエッセイや日記……本の中で守られている言葉たちに触れることも、自分と静かに対話することに近い。

塩谷 私も、そうした側面は本の好きなところです。それに尊敬できる著者はもちろん、たとえば友達としては馬が合わないであろう著者であっても、本を介せば会話することができる。たとえ思想が合わなくとも、喧嘩せずに最後まで読破できるから、視点の異なる友人を持つ方法としても本は最適だな、と。

岡本 確かにそうだね。遠くまで届けられるっていうのが、本の良いところですね。

2024.07.06(土)
写真=山元茂樹