迷っている。産みたいと願っても産めないかもしれないと言われた私は、産んだほうが良いのではないかと迷っている。

 心の奥にしまいこんでいた、子どものいない人生で将来的に後悔しないのだろうかという問いが無理やり引き出されるようだった。

 夫(当時は彼氏)は私の意志を尊重してくれて、排卵障害のことを告げられてからも、いつもどおりの日常生活を過ごせたのはありがたかった。

 

「産んでみたらかわいいよ」という呪いの言葉

 再び婦人科に行った。前と同じ女性の医師の診察日をあえて選んだ。同じ身体性の人に、この迷いを聞いてもらいたかったのだろう。

「最近、子どもがほしいのかもと思うことがあるんです」

 私がそう言った瞬間、医師の表情が明るくなったのを今も忘れられないでいる。それは不妊外来について質問した時、詳しく教えてくれた友だちのやさしさに近いものがあった。

 私は思った。

「産む」「産まない」「産みたい」に限らず、未来の自分がどうありたいかは、わからないものだ。たとえば結婚するかしないかも、自分の未来に結びつくものだが、それが自分を幸せにするものなのかどうかを把握するのはむずかしい。未婚の友人も「結婚したいのかしたくないのか自分ではまだわからないんだけど、婚活をしていると言ったら両親が安心する」と話していた。

 不妊治療と婚活を並べて語るつもりはないが、私は「もし不妊治療を始めたら、私が相談をした友人や婦人科医のように、たくさんの人が子どもを授かるためにがんばる私を見て喜んでくれるだろう」と考え始めた。

「私は子どもを望んでいる」

 ひとこと言えば、みんなが笑顔になる。

 また、今まで「子どもを産みたくない」と言った時に投げかけられた「産んでみたらかわいいよ」といった呪いの言葉のことも思い出した。

 婦人科医や私の相談にのってくれた友人には感謝している。私が子どもを産むことについて考える機会をくれたから。

 だけど呪いの言葉を放った人たちは、「女性にとって幸せな人生」=「子どもを産んで育てること」とひとくくりにしていたのではないだろうか。彼ら、そして彼女たちは自分が価値観の押しつけをしていることにも気づいていない。「私は理央に親切なアドバイスをしている」と誤解している人もいただろう。

2024.07.09(火)
文=若林 理央