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「わかり合えない」を了解し合った先にあるもの

 噛み合わないのは、会話も同じ。姉の葬式で、咄嗟に朝を引き取ることを宣言する衝動的な一面はあっても、基本的に槙生は、その意味をじっと考えてから言葉を発する人だ。言葉の意味に重きをおくのは、小説家という職業ゆえでもあり、かつて、言葉で徹底的に傷つけられた経験があるからこそだろう。不用意な言葉がまだ幼い朝を傷つけないようにと、いつも自分を律している。対する朝は、思ったことをぽんぽんと口にしては、槙生を驚かせ、ときには親しい人を傷つけることもある。その代わり、すぐに自分の発した言葉を取り消したり、「どうしてこれがよくないことなのか、教えてほしい」と素直に聞ける柔軟さが、朝にはある。

 言葉に対する向き合い方が根本的に異なる朝と槙生は、何度も噛み合わない会話をくりかえす。どんなに言葉を尽くしても、ふたりが完全にわかり合えることはない。相手の話が自分の考えと違いすぎて、よけいに困惑したりもする。それでも、彼女たちは対話を諦めない。それは、理解を求めてというより、自分たちはわかり合えないという事実を了解し合うため、ともいえる。

 この映画を見ながら思い出したのは、マイク・ミルズ監督の映画『20センチュリー・ウーマン』(2016)。1979年の夏、アメリカのサンタバーバラで15歳の息子ジェイミーと暮らす55歳のドロシアは、多感な時期を過ごす息子の行く末に漠然とした不安を抱く。いったいこの子は、激動の時代をどう生きていくのか。自分にはどんな助言ができるのか。途方にくれた母ドロシアは、自分たち親子と一緒に暮らす写真家のアビーと、ジェイミーの幼なじみジュリーにこう依頼する。「これからは、私の代わりに、後見人としてジェイミーを助けてあげてほしい」。

2024.05.31(金)
文=月永理絵