このドラマは、フェミニズム的な物語であると同時に、選択が可能な恵まれた女性たちの物語(これを専門的にはポストフェミニズム的な物語と呼ぶが)に落ち込む可能性も秘めていて、そのようなポストフェミニズム的物語につきものなのは、活躍する女性の陰に、自らの境遇を女性のせいにして恨みを募らせる男性像である。だが上記の寅子のみごとなスピーチは、それさえも乗り越えてみせた。感服である。
急増する「助力者になる男性」という構図の罠
それにしても、男性たちが寅子のよき助力者になることには、もうひとつの落とし穴がある。つまり、一言で言えば温情的な父権主義とでもいえるものである。
拙著(『新しい声を聞くぼくたち』)で論じたが、近年の女性が活躍する(ポストフェミニズム的な)物語には「助力者」となる男性キャラクターがつきものになっている。例えば『マッドマックス 怒りのデス・ロード』でフュリオサたち女性の助力に回ったマックスなど。
これはいっぽうでは平等な社会に向けた新たな男性像として歓迎すべきではある。だが場合によってそれは、根本的なところで男性の権力を(形を変えつつ)保存するための方法にもなり得るのだ。それは、女性のある程度の権利は認めつつ、家父長制の根本は譲らないような温情的な父権主義にもなり得る。
驚くべきことに、『虎に翼』はそのことにも意識的である。第1話から第2話で寅子がお見合いをするアメリカ帰りの男性(最初は理解があるふりをしながら、寅子が本当に社会問題を論じ始めると「女のくせに生意気な」とキレる)はまさにその浅い類の事例だ。
ここでは、寅子が何度か歌う「モン・パパ」に注目してみたい。「うちのパパとうちのママと並んだとき、大きくてきれいなのはママ~」から始まる、あの歌である。
この歌は、フランスのシャンソン歌手ジョルジュ・ミルトンが映画『巴里っ子』で歌った「セ・プール・モン・パパ(私のパパのために)」という歌がオリジナルである。
2024.05.27(月)
文=河野真太郎