「と、とにかく、ちょっと待って。もう少し雪乃さんと話をさせて」

 また「無駄だ」と突っぱねられるかと思ったが、青年は口を結んだまま何も言わない。了承を得たと勝手に解釈して、奈緒は雪乃に一歩近づいた。

「……雪乃さん」

 雪乃はもう奈緒のことを見てもいなかった。虚ろな瞳を何もない空中に据えて、唇を動かしぶつぶつと独り言を呟いている。

「雪乃さんは、親に決められた婚約者のことが好きではないのね?」

 雪乃の唇が止まった。無感情な眼差しがゆっくりとこちらに向けられる。青白い顔にはぞっとするほど生気がない。

「……好きになれると思う? 二十も年上の、これまで二度も妻を離縁したような人よ。どちらの奥さんも、夫の暴力に耐えきれずに逃げ出したと聞いたわ」

 奈緒は思わず絶句した。雪乃の両親は、そんな男を彼女の婚約者に決めたのか。

 十六歳の娘に、その現実は惨すぎる。

「お金と権力だけはたっぷりあるの。お父さまはご自分の病院の後ろ盾が、喉から手が出るほど欲しかった。だから娘を売ったのよ。お母さまは、『何事も大人しく従っていれば大丈夫』と言うばかり。自分もそうだったから、娘の私もそうするのが当然なのですって。わたしは黙ってそこに嫁ぎ、病院の跡取りとなる男の子を産んで、お父さまとお母さまに引き渡す……ただそれだけでいいのだそうよ」

 雪乃が乾いた笑い声を立てる。

 が、すぐに笑いを引っ込めて、すうっと目を眇めた。

「──今までだって、親の言うことにはすべて従ってきたわ。一度も逆らったことなんてない。だって、そうしなければいけないと教わったんですもの。親には背くな、抗うなと。それ以外にどうすればいいかなんて、誰も教えてくれなかった。だからいつの間にか、お父さまもお母さまも、わたしのことを、ただ首を縦に振るだけの人形だと思うようになったのね。心なんてないのだから、どう扱ってもいいと考えている」

 奈緒は唇を嚙みしめた。

 親の言うことは絶対で、逆らうことは許されない。そういう考え方、価値観が、この国にはまだしっかりと根付いている。雪乃も今まで懸命に自分を殺して、何も言わず、反抗せず、従順に過ごしてきたのだろう。

2024.05.18(土)