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「ルールに従ってほしい」と願う大人のほうが問題?

 フランスを舞台にした『太陽のめざめ』(エマニュエル・ベルコ監督)という映画を見たときも、子どもを保護する立場の大人が、愛情を持ちながらも保護の対象者との間にシビアな一線を引くことに驚いた記憶がある。この映画の主人公は、ベニーと同じように、親の愛情を受けられずに育ち、怒りを抑えられないまま非行を繰り返す10代の少年(ロッド・パラド)。家庭裁判所の判事(カトリーヌ・ドヌーヴ)や保護士(ブノワ・マジメル)は、少年の将来を案じ、彼が悪い道に進まないよう導こうと努力する。けれど、少年が越えてはいけない一線を越えたとき、彼らは冷静な判断をくだす。少年を救いたいと思うからこそ、彼らはあくまでプロフェッショナルな存在として、正しい判断をくださなければいけないのだ。

 安易に甘い言葉をかけるよりは、子どもとの間に適切な距離を置くほうがたしかに適切な態度といえるかもしれない。『システム・クラッシャー』において、「いつかは一緒に暮らせる」という母親の言葉がベニーに希望を与え、それが実現できないことで彼女をよけいに苦しませるのを思えば、ミヒャの態度はたしかに誠実に思える。だが大人の考える誠実さは、子どもには伝わらない。なぜ自分を受け入れてくれないのか、彼女の怒りはますます悲痛なものになり、周囲の大人たちは、職業倫理と自身の感情との間で激しく揺れ動くことになる。

 引き裂かれるのは、私たち観客も同じこと。それほどに、ベニーという少女の破壊と走行はあまりに魅力的だ。大声をあげ、力の限り疾走し、ときに画面すら破壊しかねない彼女を前に、私たちはこう思わずにいられない。どうかこのまま力の限り走り続けてほしいと。ここから逃げても行き着く先なんてどこにもない。暴れれば暴れるほど事態は悪化するだけ。大人しくルールに従うほうが絶対に君のためになる。そう頭ではわかっていても、ベニーが走り出した途端、わくわくする気持ちを抑えきれない。彼女が画面から飛び出し自由になることを願ってしまう。

 それにしても、たったひとりの少女の居場所をつくることがなぜこれほど難しいのだろう。映画を見るだけでは、ドイツの社会福祉の現状がどのようなものであるのかはわからない。グループホームから里親制度まで、子どもたちをケアする場所がたくさんあり、関わるスタッフが多いことを、希望的に捉えてもいいのかもしれない。でもたとえシステム上仕方がないからといって、問題を起こした途端に受け入れ先が変わっていく状況は、幼い子どもにとってはあまりにも残酷な仕打ちに思える。

 どれだけ言い聞かせても、行動や性質を変えるのが難しい子どもは大勢いる。それなら、システムに従って子どもを変えようとするのではなく、このシステム自体を変えることはできないのだろうか? ベニーの走りに追いつけない私たちのほうが、よっぽど問題を抱えた大人ではないだろうか?

2024.05.04(土)
文=月永理絵