「推しも結局は他人なんです」

――推し活で苦しくなる場面として、推しやその周囲でスキャンダルがあったり、自分の思想信条と相容れない出来事があったりしたときにどう振る舞うべきか悩んでしまうというのもあると思います。本書に登場する方のお話で、そういうときに参考になると思ったものはありましたか?

 ぼる塾・田辺さんがおっしゃっていた「どうせ好きだし」は最高だなと思います。「いったん距離を置いて、別のところにいけばいいや」というポジティブな諦めですね。それからVtuberオタクの会社員Wさんが言っていた「自分軸」というのも大事な考え方だな、と。要は、推しがどうとかほかのオタクがどうということではなく、「自分がどうしたいか」で決めれば疲れないという話ですね。

 推しって結局、他人なんですよね。「自分が何を言っても言わなくても変わらない」と私は思ってます。だからこそ逆に「自分がすっきりするかどうか」を判断基準にしてどうアクションするか決めたらいい。自分が公式にメールを1通送ったところで何か変わるかといえば変わらないかもしれないけれど、そうしたいならそうすればいいんだと思います。

――「そんな人じゃないと思っていた」と推しに幻滅すること自体、つらくないですか。

 推しが犯罪行為をしていたらそりゃ良くないですけど、「こういう人だと思っていた」は見る側が勝手につくっていたものじゃないですか。私自身は多分、「正しいから好き」と思ったことが1回もないんです。それはもしかしたらロックミュージシャンが好きだということにつながっているのかもしれません。少なくとも1980〜90年代のロックミュージシャンという存在は社会からの逸脱者的な面があったので、何かあっても「そういうこともあるでしょうね」と思ってしまうんです。ただ、そういう考えだと立ち行かなくなる場面も来るだろうなと思っています。それはライターとしてもファンとしても。そればかりは考え続けるしかないかなと。

――そもそも正しいはずがない、正しくないからこそ魅力がある存在だった。

 1995年にBUCK-TICKが出したアルバムの中に、「愛しのロック・スター」という曲があるんです(『Six/Nine』収録)。「人気者はごめんだ 人気者は僕じゃない」「もし僕が何になっても君は微笑う(わらう)」と歌っていて、おそらくファンとのディスコミュニケーションが主題になっているんですね。この曲がずっと頭に残っていて、「ステージの上の人たちのことは私は一生わからない」という思いがあります。曲を聴いている間、ライブを観ている間は心が通じ合っているような気がするけれど、それ以外のときはやっぱり他人なんですよ。でも、だからこそ曲だったりライブだったりの表現が尊いものになるのではないでしょうか?

2024.04.02(火)
文=斎藤 岬
撮影=平松市聖