「全部やらなきゃいけない」という強迫観念

――今やシニア向けメディアでも推し活が特集されるほど、年齢を問わないものになっています。かつてのその空気感は、若い世代にはあまり共有されていないんだろうなと思いました。

 大人になってもオタクをやってもいい、自分の稼ぎをそのために使ってもいい、となっていますよね。選択肢が増えたのは良いことだと思います。

 ただ気になるのが、女性が中心になっている今の推し活ブームでは、「全部やれ」と言われているような感じがすることなんですよ。身なりに気を遣って、仕事も家事もして、人によっては子育てもして……と女性が社会的に「やるべき」とされていることをクリアした上で推し活をしているというか。さきほど言った通り、かつて女性のオタクは“女を捨てている”イメージがあったのに対し、今の推し活は社会と適応しながらやるものとされているように思います。

――たしかに、好きなことをする“権利”を得るためには、ある種の“義務”を果たさなければならないという感覚は自分もあるかもしれません。

 「女子大生になったらオタクはやめて恋愛すべき」といった規範は失われて、女性の社会進出もかつてより進んで、オタクを続けるのも恋人をつくるのも自由にすればいいことになったはずだった。にもかかわらず、「全部やらなきゃいけない」という強迫観念めいたものがなんとなくありますよね。最近はメディアで「推し疲れ」という言葉が出るようになっていますが、みんなどこか消耗しているのはそれも理由のひとつなんじゃないかな、という気がしています。

――それこそ冒頭で「私は大したことない」とおっしゃっていたように、オタクとして上には上がいることが可視化されているせいで、推し活も「頑張らないといけない」となりがちだと思います。

 SNSでは全部見えてしまうので、極端なものばかり目についてしまうんですよね。それに「頑張り」や「しんどい」は共感されやすいんだと思います。アイドルに対して「頑張ってるから応援したい」と思うように、オタクも一生懸命働いて推し活を頑張っている人が共感される。しかも、お金を使うという行為については誰でも想像ができる。お金を稼ぐ苦労も多くの人が知っています。だから「これだけお金を使った」はわかりやすい。同じように「推し活しんどい」も共感されやすいんでしょうね。

 『推し問答!』でお話をうかがった社会学者の橋迫瑞穂さんが、「遊び」という社会学の概念を用いて「何かに熱狂するのは“遊び”=非日常だったはずなのに、『推し』という言葉が日常に溶け込んだことで日常/非日常の線引が曖昧になった」という指摘をされています。ハレとケでいえばハレだったはずの推し活が、ケと結びついて遊びの部分がなくなってしまった。それも息苦しさにつながっているのかもしれないですね。

2024.04.02(火)
文=斎藤 岬
撮影=平松市聖