手描きから木版画へ
さて、時代順に6つのパートに分かれた会場をざっと眺めていくと、特に浮世絵に詳しくなくてもいくつか変化のポイントに気づくだろう。最初に起こるのが手描きから木版画への変化だ。
以前、東京国立博物館での特別展「京都 洛中洛外図と障壁画の美」で紹介した《舟木本 洛中洛外図屏風》の作者、岩佐又兵衛を端緒として、16世紀末には都市の風俗や芸能、祭礼などを生き生きと描いた風俗画が描かれるようになり、やがて各部分が独立した画題へと分化していった。今回出展されている、遊女たちの姿を描いた《婦女遊楽図屏風(松浦屏風)》(江戸東京博物館では展示なし。5/16~7/13の山口県立美術館で展示)や《風俗図屏風(彦根屏風)》もそのひとつ。彼女たちの髪型やファッション、目新しい楽器としての三味線や、舶来の煙草と喫煙具、流行の歌舞伎踊りなど、新奇なニュー・モードをこれでもかと盛り込んだ「浮世」への尽きぬ関心こそ、「浮世絵」を生み出すトリガーだった。
当初、大坂や京都など上方で始まったこの新しいモチーフへの取り組みは、17世紀に菱川師宣の出現によって、新たな局面を迎える。それまでも木版墨摺の挿絵が入った版本は存在していたが、そこから挿絵だけを独立させ、1枚の絵として鑑賞できるものにしたのが、師宣のイノベーションだった。浮世絵の形式として一般的になる12枚1組の「揃いもの」という形式も、役者絵・美人画という浮世絵を代表することになる二大ジャンルも(ついでに言えば春画も)、師宣が先鞭をつけている。
もちろん江戸時代を通じて肉筆の浮世絵は常に存在していたし(江戸時代中期以降は版画で名を挙げ、肉筆画の注文を受けるようになるのが、浮世絵師の典型的な出世コースとなった)、中には懐月堂安度を筆頭とする懐月堂派のように、肉筆画を大量生産して木版画を作らなかった絵師たちもいれば、役者絵で一派をなし、芝居小屋の絵看板を数多く描いた鳥居派もいた(ちなみに現在の東京・歌舞伎座の絵看板も鳥居派の9代目が手がけている)。
モノクロからカラーへ
着色に制限のない繊細な肉筆画から墨1色の木版画への変化は、いくら大勢の手に入りやすい複製品とはいっても、いささか殺風景な感じを否めない。そこに加わってくるのが、墨摺絵に、鉱物系の赤い絵の具(鉛丹)を後から筆でざっくりと彩色した「丹絵」、そのオレンジがかった赤に対して、稀少で高価な紅花の赤を、丹絵より丁寧に彩色した「紅絵」、そして紅絵の黒=墨部分に膠を混ぜて漆のような質感や光沢を出し、部分的に真鍮の粉を蒔いてより華やかに見せようと手を加えた「漆絵」などだ。
しかし墨摺の版画に1枚ずつ筆で彩色を重ねていくのではいかにも効率が悪い。18世紀前半には、墨のほかに紅、草色、黄色など、数種類の色を使った、簡単な多色刷りが生まれて来る。中国の版画技法を見よう見まねで採り入れたと思われる簡易な木版多色刷りがさらに飛躍するのは18世紀の半ば、その中心にいたのが鈴木春信だ。
ちょうどこの頃、裕福な趣味人の間で、絵入りのカレンダー(絵暦)の交換会が大流行していた。より美しい絵暦を作らせようと、口やかましいプロデューサーたちの資金と意見が木版の現場へどっと流れ込んだ結果、短い期間に10色以上の色を重ねることのできる多色刷りの技術は飛躍的に向上。さらに紙に凹凸を表現する空摺(エンボス)やぼかし(グラデーション)、背景に雲母の粉末を施して、絵に豪華な輝きを添えた雲母摺など、ただカラフルなだけではない、多彩な質感と立体性まで備えた錦織の布のような「錦絵」が生まれ、ほどなく一般にも普及して、以後浮世絵の代名詞となっていくのである。
2014.01.25(土)