岡倉天心イヤーの締めくくり、下村観山の回顧展

「小倉山」(右隻) 明治42(1909)年 横浜美術館蔵 会期全日展示

 今では当たり前のように使っている「日本画」という言葉は、実は明治時代まで存在しなかった。明治以降、西洋文化が大量に流入したことによって、写実的な油画、すなわち「洋画」と対になる、あるいは対抗する存在として、日本で発達した独自の様式を有する絵画を「日本画」と呼ぶことで生まれたものだ。

 その契機をもたらしたのは、他でもないアーネスト・フェノロサである。明治15年(1882)に行った講演のなかでフェノロサは、西洋の油画と日本画を対比させ、日本の絵を独自の存在として定義づける。そして岡倉天心らと共に、近代国家にふさわしい「新しい日本の絵画の創出」を目指して、東京美術学校(以下「美校」。東京藝術大学の前身)を創立。そこから巣立ったのが、横山大観、菱田春草、下村観山といった「日本画」家たちだった。

 わずか50年の人生を疾走した岡倉天心の、生誕150年・没後100年という節目の年となった2013年は、「空前絶後の岡倉天心」展(福井県立美術館)、映画『天心』をはじめ、竹内栖鳳(東京国立近代美術館)、横山大観(横浜美術館)、今村紫紅(三渓園)など、各地で天心ゆかりの近代日本画家たちを取り上げた展覧会や映画が多数開催されてきたが、その締めくくりとなるのが、横浜美術館で開催中の「生誕140年記念 下村観山展」だ。

「熊野観花」 明治27(1894)年 東京藝術大学大学美術館蔵 (1/15~2/11展示)

 幼い頃から狩野芳崖や橋本雅邦らに師事し、入学前から既に狩野派のクラシックな技法を習得していた下村観山は、明治22年に美校の1期生(横山大観は同期、菱田春草は1期後輩)として入学。5年後に卒業すると同時に同校の助教授に抜擢され、既に身につけた技術を磨くと共に、古いやまと絵の線や色彩の研究も重ねていった。

「春日野」 明治33(1900)年 横浜美術館蔵 (12/7~1/14展示)
大きな画像を見る

 しかし明治31年(1898)、異性関係の醜聞を発端として天心が美校校長の職を逐われたことに抗議して大観らと野に下り、在野の美術団体「日本美術院」を創設。フェノロサがまさに日本画の特徴のひとつとして挙げた「輪郭線」を描かず、色の濃淡や描写の疎密で形を表現する没骨法によって画面に奥行きを与え、空気や光線などを表わそうとした実験的な手法「朦朧体」に大観らと取り組み、画壇に激しい議論を巻き起こした。奈良公園の神鹿を描いた《春日野》は、朦朧体を用いながらも、鹿の毛並みや松葉、芝の描写に、細やかな線描を織り交ぜている。

<次のページ> 既に大家だった観山が描いてみせた、果敢な試み

2014.01.11(土)