そのことは、物語の核となる薬品「M」によって表現される。Mは摂取した人間が数日間不眠不休で働けるようになる薬剤だ。それが日清戦争後の戦争で使用されることで、龍賀製薬はあれほどの権力を握ったらしい。そして劇中では、戦後の経済成長にMが役立っていくだろうという見通しが語られる。

 つまり、Mが暴いてみせるのは、戦時中の軍事国家権力と、戦後の「民間」資本権力が地続きであるということだ。そしてそれらが地続きである歴史がいかにして抹消されるかということだ。(私はこの作品を見ながら、旧日本軍による人体実験とその歴史の否認を想起せざるを得なかった。)

 そして、地続きの権力に虐げられ、その存在が抹消・忘却される人びとも、また地続きで同じ人びとだ。水木しげるが発明した「幽霊族」が表現するのは、そのような人びとの歴史的な存在なのだ。

 

水木しげるが描く「幽霊族」の正体は…

 人類が出現する前から存在していたけれども、人類によって抑圧され、ついには最後の一人(鬼太郎)にまで追いつめられてしまう幽霊族。『鬼太郎誕生』ではその幽霊族の抑圧の歴史の最高潮が語られる。そしてそれが、この作品の結末を胸打つものにしている。

 水木しげるは、2000年に書いた文章(「ビンタ 私の戦争体験」)で、「今でもよく戦死した戦友の夢をみる」し、さらには「最近は毎日のようにみる」と述べている。2000年に、である。水木しげるの創作の全体は戦争のトラウマを何度も語り直すことだったのではないかと思わせて余りある記述だ。もちろん、戦死した戦友は「幽霊」として現れる他はない。幽霊は、幽霊族はその人たちなのである。

『ゴジラ-1.0』がクールジャパンの希望のうちに戦争を忘却したのに対して、『鬼太郎誕生』と水木の涙は、「忘れた」はずの戦争が、目に見えないものが、虐げられて抹消された人びとが、今も私たちの隣に存在していることを私たちに教えている。そして、ゲゲ郎と水木のバディ関係はそのような虐げられた者たちの連帯として読まれるべきなのだ。

2023.12.10(日)
文=河野真太郎