2作品の「戦後の乗り越え方」は正反対

『ゴジラ-1.0』が1947年を中心としていたのに対して『鬼太郎誕生』は1956年を舞台とする。時代としては10年の隔たりがあるのだが、それにもかかわらずこの2作品は「戦後」をどう乗り越えるかということをテーマとしている点で共通している。

 

 戦争と戦後というテーマは、この2作の主人公がそれぞれに「特攻隊」の生き残りであることによって導入される。『ゴジラ-1.0』の敷島は零戦の特攻隊員、『鬼太郎誕生』の水木は陸軍兵士で決死攻撃を命じられ、生き残る。

『鬼太郎誕生』は、原作(『墓場鬼太郎』)にはない水木の戦争経験という改変を行うことによって、むしろ、南方戦線で決死隊に所属し、左腕を失いながら生き残った作者水木しげるの経験に寄り添うものになっている。この2作品においては、特攻隊/決死隊のトラウマをいかに乗り越えるかという物語と、日本の「戦後」をどう乗り越えるかという物語が重ね合わされている。

 しかし、この共通点にもかかわらず、この2作品の「戦後の乗り越え方」は正反対であるように私には思われる。

『ゴジラ-1.0』について、私はこちらの記事で書いたが、この作品が「民間のプロジェクト」を強調したのは、この作品が持つ「日本再興」というナショナリズム的な衝動が、再軍備化的な回路(つまり敷島の特攻死の再演)で表現されてしまっては、グローバル市場で売り込むにはあまりにも陰惨なものになるからだと考えた。つまり、この作品の「民間」は口実であり、底に流れる衝動は日本の再軍備化である(それが言い過ぎなら、権威主義的な国家である)。

 興味深いことに、『鬼太郎誕生』もまた「民間」の物語である。だが、この「民間」の意味は『ゴジラ-1.0』とは正反対である。舞台となる哭倉村を支配するのは龍賀一族であり、一族は財界を支配し、龍賀製薬を経営している。

 だが、そこで強調されるのは、国家や官僚的なものと対立関係におかれる「民間」ではない。そうではなくまったく逆に、強調されるのは、戦時国家の権力と戦後の「民間=資本」の権力の連続性だ。

2023.12.10(日)
文=河野真太郎