ローカルに徹するべきか
30年以上、社長を務めていれば、波瀾のひとつもないはずがない。
苦が負にならないという御仁がまれにいる。相応の星霜を経てきて、顔つきや皺ひとつに苦悩の跡が刻まれぬはずはないのだが、どうにも、そうしたことを感じさせない。
目の前のソファに屈託なく座る野並直文は、育ちがいいのにエリートの持つ嫌味がなく、インテリでありながら道化を率先して楽しむ遊び心に富んでいた。横浜っ子の気質、というものであろうか。
シウマイ弁当の外装に、十字状に紐がかけられたものと、そうでないものとがある。前者は横浜工場と本社工場で、後者は東京工場で製造されたもので、紐がかけられたシウマイ弁当は東京駅構内では売られていない。花結びといい、くるりと輪を巻いた結び目から伸びた長い紐を引けば解ける。短いほうの紐を引いたら、かえってきつく結ばれる。愛好者にはとうに知られていることだが──。
「東京駅、横浜駅、新横浜駅、どこで売っているシウマイ弁当も中身はまったく同じです。外目に唯一、違っているのは、紐がかかっているかどうか、なんです。紐のかかっているシウマイ弁当をお買い上げいただいたときは、新幹線の中で、その紐を解くときの、なんとも妙にエロチックな感覚をお楽しみください」
社長の野並直文が自らそう笑うのである。この花結びは、新入社員が必ず教え込まれる作業となっている。ベテランは五秒ほどで、要領を心得ぬ新人でも十秒あまりで結べるようになると聞いた。子どものときから食べている私は、いまだ何分かかっても結べない。
将来の進むべき道が定められた者ほど、思いのほか、そこへ辿り着く道行きは定まっていないということなのかもしれない。
地元の横浜市立港北小学校から慶應義塾の中等部に進み、1971年、慶應大学商学部を卒業した。流通革命という流行語にいざなわれるように、首都圏で華々しくチェーン展開していた西武百貨店系列の西友ストアー(当時)に入社する。インテリア部門に配属され、絨毯やカーテンの販売を担当した。「10年くらいで出世してやろうと思っていた」と回想する。だが、父は、「遊んでいないで戻ってこい」と1年と少ししかたっていないのに有無をいわせず崎陽軒へ転職させる。親元から巣立っていこうとする跡継ぎ息子を、取り返しがつかなくなる前に手元へ呼び寄せたいという父のエゴが多少なりとも働いたろうか。野並直文自身、「崎陽軒に戻ることが親孝行にもなるか」と考えるところはあった。
御殿場に出店した崎陽軒のレストランの店長を務めたりした。責任ある仕事を任せられるのは想像以上に難しいと実感し、「もっと勉強しておけばよかったな、と後悔していたころ」、母校の慶應がハーバードなどで知られる欧米の著名なビジネススクールのように、社会人を対象にした2年制の本格的な経営大学院を開設するという新聞広告を目にする。
「親父に『行きたい』っていったら『受かるわけねえだろ』と笑われたんです。でも、受けたら合格しちゃった。『しょうがねえから行ってこい』と親父が認めてくれましてね」
慶應ビジネススクール、略称KBSの修士課程の第一期生として、1978年、29歳のとき、入学する。以後、月曜から金曜、朝より夕方まで、みっちりと授業があり、1日に2ないし3社の企業経営の実例を討論形式で研究して学ぶ。授業のない土曜日には、崎陽軒に戻って幹部会議に出て、実際の経営を肌身で覚えていった。これを2年繰り返すうち、KBSで学んだケーススタディーは600社を超えた。
「経営者としての疑似体験を、それだけの数できたのだと思います。本当に大きかった」
もうひとつ、経営者としての指針に大きな示唆を与えられた。父から「崎陽軒のシウマイは全国的なナショナルブランドをめざすべきか。それとも横浜のローカルブランドに徹するべきか」と、たびたび問われていたのである。
「親父も本当に悩んでいたのだろうと思います。私も結論づけられずにいました」
そのころ、会員であった横浜青年会議所(JC)の活動の一環で、「一村一品運動」のまちおこし提唱者として有名であった大分県知事の平松守彦に面会する機会を得た。県庁で、平松に相対すると、志向すべきはナショナルブランドかローカルブランドかと訊ねた。
「『典型的な例はアルゼンチンタンゴだ』と平松さんはおっしゃったんです。首都ブエノスアイレスの港町の民族舞踊でしかなかったものが非常に芸術性に優れているからと、いまや世界中の人たちが楽しむ音楽、文化になった。真にローカルなものこそ、本当にインターナショナルなものになり得ると、その理念を語ってくださった。目から鱗でした」
父から社長の職を継いだ1991年以後、大規模なレストランや宴会場などを備えた本店ビルの竣工や工場の拡張など、社運を賭けたといっていいプロジェクトが矢継ぎ早に進んでいった。当時、20億円の借入金があった。順調に完済できると見込んでいたが、バブル景気終焉の影響は否応なく押し寄せ、九〇年代半ばには年商が約200億円であったのに対し、過大な投資と販路の急拡大が仇となって借入金が百億円に膨らんだ。崎陽軒という会社のありようを、いま一度見つめ直す時機ともなったろう。真にローカルなものこそインターナショナルなものになり得るという信念のもと、全国のスーパーマーケットなどにシウマイ商品の委託販売をすることで売り上げ増を図る方針を、およそ20年をかけてご破算にしてゆき、横浜に地盤を置いた着実な事業へと回帰させていった。
「うちのシウマイのような商品こそ、横浜に行かないと買えないという稀少性が地元の名物であることにつながって、ひいてはブランド価値になるのではないでしょうか。ブランド価値があれば価格競争にも巻き込まれないで済みます。どこのコンビニ店でも買える利便性と売り上げ増を追ったら、結果は火を見るよりも明らかだと気づいたんです」
2023.05.18(木)