『わが殿』は、複数の地方紙に、二〇一七年三月から一九年四月にかけて、順次掲載された。単行本は二〇一九年十一月、文藝春秋より上下巻で刊行。なお単行本化に際して、加筆がなされている。「週刊文春」二〇一九年十二月二十六日号に掲載されたインタビューの中で、

「ずいぶん前から編集の方に『史実に基づいた小説を書いてみませんか』と提案をいただいていましたが、これというテーマになかなか出合えなくて。そんなある時、ふと資料を読んでいたら『江戸から明治への移行期に黒字だった藩はほとんどなかった』という旨の記述を目にしました。よい塩田に恵まれていた某藩は、理由がはっきりしていましたが、大野藩はたった四万石の小さな国。盆地ゆえに田畑をろくに切り拓けず、海も飛び地にしかありません。なぜ大野藩が黒字だったのか? 疑問に思い、強く興味を惹かれました」

 と語っているように、初の歴史小説執筆の発端は、大野藩がなぜ黒字だったのかという疑問にあった。そこから作者が主人公に選んだのは、藩主の土井利忠ではなく、彼の命により長年にわたり財政改革に携わった内山七郎右衛門だ。知る人ぞ知る人物であり、一九九六年に刊行された、大島昌宏の『そろばん武士道』でも主役を務めている。こちらも、いい作品だ。ただし大島作品がストレートな歴史小説だったのに対して、本書はかなり癖の強い歴史小説になっている。その癖の強さこそが作者らしさの発露であり、本書の魅力になっているのだ。

 物語は、十九歳の内山七郎右衛門が大小姓のお役目に就(つ)くことが決まり、江戸の大野藩上屋敷に向かう場面から始まる。江戸に着いて、一緒に出府した石川官左衛門から、主君の土井利忠が、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三人の誰に似ているかと聞かれた七郎右衛門。つい信長と答えてしまう。道中でも七郎右衛門は、官左衛門に妙な質問をされていた。このとき七郎右衛門は知る由もなかったが、利忠が人物を確かめようとしていたのである。

2023.01.26(木)
文=細谷 正充(文芸評論家)