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富山県は北海道に次いで北方領土からの引揚者が多かった

 灯台の向かいには「北洋の館」というカフェがあり、黒部観光ボランティアの会の松野均さんが迎えて下さった。実は七尾市の青柏祭(5月3日~5日)の後、下見のためにこの地を訪ねて松野さんと知り合いになったので、今回も協力をお願いしたのである。

 生地鼻灯台が建てられたのは昭和26年。松野さんが2歳の時で、それ以来ずっと暮らしの一部になっているという。

「昔、イカ釣りの漁船に乗って北海道から富山湾に帰ってきた時、最初に目に入る光が生地鼻灯台でした。それを見るたびに心を打たれたものです」

 店にはボランティアの方々三人が来て下さり、生地の歴史や灯台の思い出について語って下さった。

「ここにも灯台守の官舎があって、五世帯くらいの方々が暮らしていました。そこの子供たちと仲良くなったり、官舎の庭で野菜を作る手伝いをしたりしました」

「昔は漁民が住む寒村だったようです。しかし明治になってからは、水深が深いことが幸いして蒸気船の寄港地になったのです。それで遠洋漁業の基地になり、北海道まで鮭や鱒、鰊などをとりに行くようになったのです」

 松野さんは水産会社の社長であり、そうした船団を組織していたこともあったという。

「富山と北海道は北前船の頃からつながりがありましたからね。明治の終わり頃になると、根室や羅臼などに出稼ぎに行き、コンブの漁場を開拓するようになったのです」

「そうそう。それが結構儲かるもんで、国後や色丹などに移住した人たちがたくさんいたんですよ」

 ところが終戦間際にソ連軍に占領され、着の身着のままで逃れてきた人たちが多かった。そのため富山県は北海道に次いで北方四島からの引揚者が多く、県立の北方領土史料室の資料によれば総数は1,425人。そのうち黒部市は835人だという。

 夏は多くの人々が出稼ぎに出るので、海辺の村はガランとしていた。その情景を生地ゆかりの詩人田中冬二(一八九四~一九八〇)は「ふるさとにて」という詩に描いている。

ほしがれひをやくにほひがする
ふるさとのさびしいひるめし時だ

板屋根に
石をのせた家々
ほそぼそと ほしがれひをやくにほ
 ひがする
ふるさとのさびしいひるめし時だ

がらんとしたしろい街道を
山の雪売りが ひとりあるいてゐる

 氷室に入れた雪を夏に売り歩く者がいたのは、すぐ近くに立山連峰がつらなっているからだろう。

2023.01.10(火)
文=安部龍太郎
撮影=橋本 篤
出典=「オール讀物」2022年12月号、「オール讀物」2023年1月号