「自分のことを『編む動物』だと言っているんです」

――三國さんの「日常の楽しむ力」は、やはり生まれ育った家庭の影響が大きいのでしょうか?

 どうなんでしょうね。母親はわりとなんでもおもしろがるタイプの人でしたが、若くして私を産んだので普段は余裕はなかったと思うんです。その代わり、祖父母四人が近くにいて、私が遊んでるそばを通りがかるたびに、なにかちょこっと言って笑わせてくれたり。それで自分は大事な子なんだなーと感じてのびのびできるといったことは、よくよく考えると幸せなことだったのかもしれませんね。

――『苺』『キダケ採り』など、豊かな自然と共にある新潟の暮らしの描写にも三國ワールドのルーツが伺えます。

 秋になったら山でキノコを採ってくるとか、春になったら潮遊びをする海であおさを採ってくるとか、普通だったんですよ。

 いま思えば豊かだったんですね。東京に出てきて、みんな採りものをしないんだなということに初めて気付きました(笑)

――本書は一遍ごとに完結した「日常エッセイ集」であると同時に、ひとりの少女が様々な人と出会い、迷いながらも作家としての道を切り開いていく半自叙伝にもなっています。これは最初から想定していた?

 してませんでしたね。去年『編みものけものみち』という個展をして、20年の作家生活をたどると言われて驚いたぐらいで、これを書いた当時は半生を生きた意識もなかったですし、いまだにいつになったら大人になるんだろうと思ってます。


――前書きには“「書くこと」は「編むこと」と似ている”という一文がありますが、両者はごく自然に三國さんの生活にあるものですか?

 そうですね。編み物であれ、文章であれ、なにかものを作るって、自分が日々の生活で感じたことを糸で繋げて、それを自分の物語にしていくことだと思うんです。私、自分のことを「編む動物」と言っていて。もともとはほぼ日で編み物のライブ配信をしたときに、カメラを回されても気にせず、猛然と編んでる姿が動物みたいだねってことで「ニットパンダ」と呼ばれて(笑)。それがだんだん「編む動物」に定着したんですが、書いてるときもそれと同じ感じで、熟考して書くというよりは、糸を食べて編み物を自分から出す生き物みたいに書いてました。

 ものを作ることって、私の中では生きることとイコールぐらいナチュラルなことで。対外的には昔から不器用で、今でいうコミュ障みたいな感じだったんですが、ものを作っている時間だけは、自分の本性をそのままに生きられる感じがあったんです。

2022.10.07(金)
文=井口啓子
写真=佐藤 亘、平松市聖